あたりはまだヒル下りの光線で明るいに拘らず、土俵だけさらに煌々と電気がつくので、その加減かもしれない。何れにしても、いつもながらもうもうたる人の波、人いきれの中を通つて、卒然目の前に土俵だけがはつきりと浮び上がる見物席のところで目に映ずる、力士の裸体姿は、その筋肉のふくらみといひ、ツヤといひ、何か人間の皮膚の色をした上等の外套か何かをぴつたり身につけたものゝやうに、飛び放れた不思議な景観だ。裸体から連想する寒さといつたやうな感じなどは少しも起させない張り切つたものである。
H川がこの日風邪気かなんかで溜りに控へてゐる間太い竪縞の丹前を羽織つてゐたけれども、丹前もくつきりした柄合ひのものを膝のところあたりに一寸引つかける位は、控へ力士の色気になつていゝものだ。H川の丹前姿は顔色も秀れず、襟先きからすつぽりかぶつて、始終シヨボシヨボし、やがて名乗りを受けて土俵に上ると、すぐ相手の藤の里にやられてしまつた。かういふのはつい力士渡世のあはれを感じさせるやうで、角力見物に里心がついていけない。
ぼくは力士に対してひいき不ひいきを全然持つてゐない。それよりもぼくが角力そのものに対していけないのは、勝敗に対して元々どつちが勝たうとも大した関心は払はないことであるが、昔両国橋畔になじんでゐた子供の頃には、いふまでもなく、勝角力を尊敬して負角力はケイベツしたものだつた。何年間か毎場所自分で丹念に星取表を作つたものである。――よくそんな話が出ると、人に自分の記憶を述べては、大昔のことのやうにてんで話のツボが合はず、笑つてしまふことがあるけれども、ぼくは家のオヤヂが昵懇だつたので昔の陣幕といふ人をありありとおぼえてゐるのである。その後は、昔の陣幕の面影は、芝居で「双蝶々」なんかゞ出ると舞台のぬれ髪の姿にぼくの記憶を彷彿とさせるものがある。黒縮緬の羽織に派手な色の羽織の紐と、俎板のやうな桐の柾のドエライ下駄をよくおぼえてゐる。それにつけても、力士が飛白の着物を着たり洋服を着たりする風俗はどんなものだらう。ぼくだけの妄想からいへば、元々チヨン髷を載せてゐられる特殊稼業なのだから、出来るならば袴なんかもつけない方がいゝんぢやないかと思ふ。
所詮ぼくなんかの門前の小僧の記憶も、常陸山・梅ヶ谷の時代に中心があるやうである。――その時分、われわれ両国界隈の人間にとつては、老若男女共に年二度の「場所」はあの川筋の夏の「花火」と共に生活の一つの内容のやうなもので、殊にぼくの成人した家のやうな客商売とか、元柳町筋一帯の芸妓屋稼業にとつては、一面生活を角力や花火によつてパトロナージュされてゐた傾きさへある。
[#「今のメモリアル・ホール」のキャプション付きの図(fig47603_03.png)入る]
場所が来ると風の加減で櫓太鼓が水を渡つて来るだけでなく、吉例の触れ太鼓がやつて来るのである。呼出し奴に太鼓の連中を添へた一団がすたすた大太鼓を小意気に棒へ横つちよに結へつけた奴を担つて、玄関口へ一さんにおしよせる風景は、気負ひのものだつた。扇子を半開きにしてすき透るやうな美声で順々に取組を披露する。そして一番おしまひに、「はじまりは早う御ざりまする――」と一人が早口に語尾を引いていふと、これにかぶせて、ドドドドカドカドカ……と猶予なく太鼓を打込み、触れ太鼓の連中はさつさと出て行つてしまふ。中に「どうもありがたうござゐます」とか「どうぞお早く」とか、腰を低く家の者とあいさつしながら、祝儀を受取つたり、茶わん酒を一杯引つかけたりして行く者がある。皆足ごしらへの敏捷な縞のたつつけ姿で、そして木版刷の墨色のトギトギした番附を置いて行くことは申すまでもない。
ぼく達チビはまた、あの番附のヘンな字が、まだろくに本字も知りもしない中から、よく読めたものである。中に「申」とか「頂き」とかいふ名は日頃なじみの字なので、好感があつたものだ。その他、思ひ起す昔の角力の名は――子供のころ幾度も石盤へ書いたり消したりした名は――鳳凰、大戸平、源氏山、大蛇潟、不知火、北海、荒岩、大砲、鬼ヶ谷、鬼龍山、谷の音、国見山、稲川、緑島、伊勢ヶ浜、玉椿、浪の音……等々。太刀山、駒ヶ岳、両国……といつたやうなところはつい近頃のやうだ。あるひは紫雲龍であるとか、小常陸であるとか、稲瀬川、司天龍、黒瀬川、大鳴門等々。黒瀬や大鳴門は顔が好きだつた。丁度今の鯱の里がそんなものであらう。
大砲はわれわれはタイホーといふのに家の者達はオホヅツといふので、どつちが本当の名であるか、たうとう判然としなかつた。梅と常陸は常陸が完全のものゝやうな感じを与へ、一寸手が届かないと同時に、梅ヶ谷ではまた何か不足のやうなひいき心を起したものだつた。当り矢は禿頭の力士だつたと思ふ。また大崎といふ角力は土俵で息を合はせる前に一つ尻
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