のが右往左往するし、のぼりは太いズンドの竹を荒繩であしらつてそこから高くそびえ、風にギーグーギーグー鳴りながら、はためいてゐる。丁度上等な昆布のやうな昔の純綿の幟りがばたばた、生きてゐるのである。
そんな音や風景の中に矢張り角力場は鳩がゐて、鳩もまた負けずにばたばた羽ばたいた記憶をもつてゐるのだが――近頃は鳩達もどうなつたかしらん。
回向院の本堂のわきには相当大きな黒い石で仏足石があつたやうにおぼえてゐる。――しかしこれはあるひは深川の浄心寺と記憶を混同してゐるかもしれないが、この石は表面がすべすべとして平らで、日が当ると、ホカホカしてとても温かつた――本堂までの正面見つきにはシヤモ屋のぼうずの通りからまつすぐずつと一列に石が敷いてあつて、からかねの露仏が左右一対に並び、本堂から回廊を渡つて、その先きが庫裡、その裏が墓場になつてゐた。向つて左手の露仏の片わきにはいつも真新しく太い立派な塔婆が立つて、そこに吊鐘が竹矢来の中に安置してあつたものである。――その辺が元は一帯に空地だつたのを国技館の敷地にしたものと思ふ。
今年(昭和十四年)春場所の初日(一月十二日)に、今いふ回向院の「正面見つき」のところをわざとまつすぐ通つて見ると、却つてこゝは今では回向院は頽れたまゝ、国技館からの裏口といつた、ゴミゴミした小路に零落してゐるが、左側の露仏は元通り恐らく元の位置に(?)あるやうである。それよりも盛観はこの小路せましと目白押しに並んだ自動車の堵列で、今年はそれが例年より少ないとはいつても、そのスマートに黒くあるひは青く水のやうに光る車の列の影に蹴おされて、小汚ない右手の渡廊下の奥の奥に、例の治郎太夫、鼠小僧の墓が――さういつてはこの侠盗の故人に気の毒ながら、先づ外後架といつた、むさくるしい感じに、辛くも残存するのを見た。しかしこの墓の囲ひに使はれてゐる鉄柵は、今になつて見ると、珍重すべき明治美術品の断片である。
[#「鼠小僧の墓」のキャプション付きの図(fig47603_01.png)入る]
八丁堀無宿次郎太夫事、次郎吉。天保年間の書きものゝ小書きに「深川辺徘徊博奕渡世致居候」とある名物男で、泉町の生れであつたから、いづみ小僧といつたのを動作が敏捷だつたので「ねずみ小僧」と転訛したものだらうといふ説は、正しいかどうか。なんでも二十九の頃から「盗賊相働き屋敷方奥向並長局金蔵等に忍入り」といふから、今の大衆ものゝ本家である。
「大名は九十五ヵ所右の内三四度も忍び入候処も有之由」それで結局「〆八十軒程は荒増覚居候由、此事限り無御座候此金高三千二百両程。」
そしてその商家大名から盗んだ金は貧民に分けたといふのだが、天保三年に捕まつた時の、筒井伊賀守組同心相場半左衛門……か誰かに取られた調べ書きでは、その金を自分で「盗金は悪所さかり場にてつかい捨候」と自供したといふのである。連累が貧民に及んではいけないのでみな自分でかぶつたといふ。
三千二百両は矢張りその時自供した盗金の金高であるが、実は凡そ一万二千両程に及んだだらうといふ。現在の金に換算したらどの位の金高になるだらう。
「右次郎吉吟味相済八月十九日引廻し之上、小塚原にて獄門に相成候」
次郎吉は大盗であるが、しかし当時は盗られる方にも器量人があつたと見えて、ある大名の奥方の寝所に忍び込んだ時に、彼が奥方の手文庫を盗んで今立ち去らうとすると、寝てゐた奥方が静かに床の中から声をかけて「後を閉めて行けよ」といはれた。これには次郎太夫の方が参つたといふことである。一寸大仏次郎好みのしやれた構想だ。――本多豊後守は大口で一気に三千両してやられてゐるが、藤堂和泉守二両、細川越中守一分二朱といつたやうな小口もあつたらしく、小口といつても大時代であるから一分(五十銭)でも次郎太夫徹夜のロケーションの手間位にはなつたものかどうか。少くもぼくの飛ばした(明治三十幾年代の)凧の二円五十銭から見てまたぐんと割は高値だつたやうである。
何年来にも珍らしく「ねずみ小僧」の墓を訪ねたのは国技館の初日をのぞく前の、午後三時かれこれであつたが、寒風凜烈、この途中でわざと乗物を浅草橋で下りた道中を、両国広小路から柳橋を左に見てテクテク歩いて両国橋を渡る道すがら、殆んど満足には目も明いてゐられない、胴震ひの来るやうなカラツ風だ。川中にはさゞ波の小じわが立つてそれが一|群《かた》まりづゝ動きながら、あるひは右あるひは左へ水の色を変へてゐる。
[#「昭和廿一年秋場所二日目」のキャプション付きの図(fig47603_02.png)入る]
知り合ひが行司を裏から見る方の四の側に桝を持つてゐるので、茶屋からそこへ行くと、丁度双葉山の優勝額掲揚式か何かゞすんだところである。双葉山は前年よりも色が黒くなつたやうに見えた。もつとも
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