の東京版画に、文献と芸術価値を兼ね備へたいゝものがある。
子供の頃は、所詮狭い地域を天地と考へて悠遊するものだ。僕は両国界隈に悠遊したつもりでも、それは両国吉川町(ぼくはそこで生れた)を中心として東は隅田川を隔てゝ両国橋の対岸に及ばず、北は神田川を隔てゝ浅草橋を越えて、瓦町に及ばない。両国橋の対岸は本所区で橋を渡ると元町になり、回向院がある。この川沿ひの北は藤堂屋敷と云ひ馴らした百本杭のところである。
また神田川を境界として浅草橋を渡れば浅草区になり、その大通りは茅町、瓦町、須賀町……といつた順序で北進して蔵前から浅草に向ふ。ひと頃島崎さん(藤村子)の住んでをられた新片町はこの大川寄りの一劃に当り、その向う町内の平右衛門町には大六天があつたし、大通りの須賀町に天王様があつた。ぼくは祭り祭りにこれへは小さいころから行き馴れたものゝ、平素は、浅草橋を渡つて瓦町まで進入することは滅多になかつた。(瓦町にはひと頃小山内薫さんが住んでをられた。)
一方、自分の区内(日本橋区)の天地は、これも今思へばほんの狭小にすぎず、南は大川寄りの薬研堀、矢の倉を出ず、西は馬喰町を出ない。矢の倉にはその
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