になるとすれば、少くも明治三十五年かれこれの横山町の路地のいひ立ては、大体この辺で間違ひは無い筈である。そしてこんなプロザイックな軒別のいひ立てにも、別に永井さんの路地を叙した不滅の芸術的文献が消えない限りは――それへの素材の裏付として――一つの意味はあらうといふものだ。たゞ、いかんとも残念ながら、絵の方には明治以後にほとんど一枚の路地をうつした作品も無く、これはまた写真さへ、路地を写したものは残つてゐない。
平素ぼくは思つてゐることであるが、土地の「名所案内」と云つたやうなものは却々編輯の難しい仕事である、と。一般に東京案内の類で見ても、例へば、両国橋の側面から大写しにした姿ならば何の本にでもその図がのつてゐる。しかしその欄干の具合といふことになると、その一枚の残影をさがすのに後年ぼくのやうな物好きが小十年はかゝるといつたあんばいで、銀座通りの写真は腐る程あつても、横山町となるとばつたり少なくなり、ましてやその裏影の路地となると、残影は全然一つも無い。横山町の路地を写した写真は非常な偶然で当時の素人写真でも見付ける以外には、文字通り今では世界中に一枚もその面影は伝はらないといつて、
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