のである。
この図の共立社とある馬車は、この「共立社」はぼくは知らないけれども、無軌道の、柳原通りを駈けたガタ馬車がこれだらう。二頭立のカバ色に塗つた方の線路の上の馬車は、後年これが奉天へ身売して二度の勤めをしてゐるのを向うで見て(大正九年のこと)、懐旧の情にたへなかつたことがあつた。
井上探景はこの図を何年に作つたものだつたらうか。明治二十年代ではないやうであるが、とに角ぼくの生れる以前で、大体ぼくの家が第八いろはの招牌をこの家に掲げたのが明治十九年のことといふから、図の五色ガラスから類推して、丁度その時分に写されたものかも知れなかつた。そして作者の井上安治は、やがて明治二十二年の九月には、ほんの二十歳を少し出たばかりの若さで夭折してゐるのである。
明治十九年以前、いろはになる前のこの家は、初め綿を打つていた家だつたさうだが、商売に外れて四度も代替りをした揚句、土地の松本といふ差配が持て余してゐたのを、ひとゝは変りものの僕のおやぢが、さういふひとの外れる家ならおれにはきつと当るだらうといつものケントクから、月二十二円の家賃で一先づ借りたといふことだ。それから改めて千円若干に仕切
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