も手伝ひ旁々、一時「柳橋」は本末顛倒して、大川端の元柳橋が元の、そもそもの、柳橋。神田川の大川口にかゝる柳橋は「新柳橋」であると、恰も人でいへば無実の罪にもおちんばかり、証拠も弁論も相手方に全然有利で、本ものゝ柳橋は却つてその名の権利や理由の正当さをいひ解く術の無い、そんな情勢を惹起したことがあつたのである。
それにしても一体、何故[#「何故」に傍点]、難波橋を元柳橋とは云ふのだらう?
享保十三年(西一七二八年)の八月に、両国橋は出水で流されたことがあつた。それで普請をして仮橋が出来、本橋は引続き普請中、寛保二年(西一七四二年)にまた流されてしまつた。やつと本普請が出来て仮橋を取払つたのが延享元年(西一七四四年)五月のことである。
この間、仮橋の両国に人の親しむこと十六年の久しきにわたつたので、本橋が出来上つてからも、却つてそれまで仮橋のあつた位置の方を人は呼んで元両国といつた。(ぼくが子供の頃には、まだこの辺を元両国と呼ぶ年寄りが沢山ゐた。)
この元両国に難波橋があつたのであるが――「夫婦柳、なにはのはしの詰にあり、来歴しれず。」(江戸砂子)
「夫婦柳、両国の南川はた通り、難
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