波橋の北の方に、左右に二本、いにしへより在。近きころ一本枯たりしが、根より芽生へ出で、元の如く並び立てり。米沢町と鈴木氏御屋敷との間也。」(総鹿子)
 難波橋の橋の傍らの柳についてはこれ程文献に著聞する限り、橋の名もこれにかけて柳橋と呼ばれようことは容易くうなづける。元両国の地にある柳橋、それが[#「それが」に傍点]「元柳橋[#「元柳橋」に傍点]」の名の起りである[#「の名の起りである」に傍点]。
 しかし同時にそれが「元からの柳橋」といふ混同を来す理由にもなつたのは、混同を来さない方が寧ろをかしいくらゐ、この舌ッ足らずの橋名が重々悪いためである。
 難波橋がいつ頃から[#「いつ頃から」に傍点]転じて元柳橋となつたか。――その経緯は遺憾ながらはつきりしない。
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【註】これは既存の文献についていつたのだが、僕が柳橋の近くにゐたころはまだコドモだつたので掲ぐべき写生画とて無いが、木下杢太郎(太田医博)の写したものに、明治四十一年代の柳橋が一枚ある。これにもひよろ長いガス燈や電信柱はあれど、柳は無い。杢太郎の写生画は同氏の学生時代であらう。
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