十八日御届とある)には、珍らしく、本所側から浜町大川端一帯を見渡した景色が描いてあつて、川岸の頃合ひの所に大きな柳が見える。川向うからこれ程大きく見えたかと思ふ大柳があつて、そのすぐかゝりに存外小さな橋が描いてある。いふまでもなく元柳橋遠望の図に相当する。
 明治二十三年四月の版の「東京地理沿革誌」に、「米沢町は三町あり。元祿の頃までは矢の倉といへる米倉の地なり。故にこの名ありとぞ。町内より矢の倉町に渡る橋を元柳橋といひ、又この辺の河岸通りをも元柳橋と呼ぶ。」
 かういふ叙述があるが(山口県士族村田峰次郎氏文)、これは沿革誌として相当古い文献になるから、後の東京市で編輯した公文書あたりにもこの記事は尊重されてゐるのと、「又この辺の河岸通りをも元柳橋と呼ぶ」さうはつきりと書いてあるのが、決して誤聞や誤記を誌したとは思へぬ節があつた。これがかういふ地誌には軽からぬ性質となるもので、恐らく巷説は、たしかにあの辺の土地をさういひならした習慣もあつたものだらう。
 つい口づての不用意なそんなところから、剰さへ名実そのまゝ橋のたもとに柳樹の在ることといひ、元柳橋の「元」の字の意味の手つ取り早い解釈
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