」以上の、否、以上も以下もない「鏑木さん」といふ個々性に関しない、それよりもぢかの、ニンゲンの不死像だといふ、右の意味である。
 そこで恐れ気もなくいへば、先生の再び三度びこの円朝像の「汗」を画いて頂きたいことを。先生はどうかすると余り先生の美しい神経をいたはり、完全無欠の趣味性に澄み渡るあまり、その写されるニンゲンを清掃なさり過ぎはしまいかと思ふ。
 鏑木先生に向つてこそ「汚ない」絵をかいて下さいと非常を[#「非常を」に傍点]懇望出来る、日本画壇――日本画洋画をこめて――の、「綺麗」さは百尺竿頭を極め尽した画人だと思ふ。――暴言罪多。ぼくは切にこの感じを先生に対して抱いてゐるものである。

        三

 次の一節はこの書きものをなすに当つて一番最初にぶつつけに誌した未定稿であるが――ぼくは鏑木さんのどこに牽かれるのだらう? それは勿論鏑木さんの絵と、同時に、その人柄に牽かれるのだと思ふのである。
 されば鏑木さんの「人柄」とはどんなものだらうか。
 人には喜怒哀楽がある。ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。鏑木さんは土田麦僊を失つた時にその報を受く
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