「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手にさはつても少しもあぶらめいたことがなく、かいつくろつた両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
それは確かに「美しい」一つの欠くべからざる要素である。
たゞ円朝像には、両手に持つた湯のみにもそのこつくりとした重さと同時に手の皮膚が感じる湯呑の温度、互ひのつや、或る埃、或る汗までも感じられて「美しい」以上に「本当」だつたし、ぼくは一葉像で最も感服したのはその服飾の、胸から両手、胴体へかけての、作者の「眼」といへるものであつたが、あの絵を見てゐると、そこになんどりとした女人の体温を感触して、到底この作は、たゞ事でないと思はしめる。
そして円朝像にはその「只事ならぬ」感銘が更に画面くまなく充ちてゐたと思ふのである。円朝の頭部の重さ、その丸さ、その肉付けには、昔の彼の伎楽面がカンカンの木材でゐながら猶千古乾くことなくしつとりと人肌の「汗」をたゝへてゐるやうな、それと同じ肌合ひがある。
あの作品は鏑木さんの画いたに違ひないものである。
しかし「鏑木さん
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