個性を暫く忘れさせるものがある。少くもぼくは清長や、春章や、歌麿の仕事を見て、その何れにも焼き付いたやうなそれぞれの作の個性を常に汲む、一方に、すでに到底その仕事のスケールなり深さは「清長」でも「春章」でも「歌麿」でもない、もつと凄い、壮大なるもの。絵筆を持つた場合の日本人といへば、簡単であるが、意味はそれが一番わかりよくないか――さういふものに接して撃たれることがある。
 同じやうに、清方ゑがく円朝の像も、この絵にくまれる個性の「清方」は便宜上それを通してこの絵が組立てられてゐるまでの、実はこの絵はより大きく日本人の描いた一枚の不滅な肖像画となつてゐる。さういふ決定的な功績を、あの絵は我々の絵画史の上に示した、当代の金字塔の一つだつたと思ふのである。従つて、それを描いた鏑木清方だと思ふのである。
 踏絵等々に始まる鏑木さんの個性はいつも清々しく美しいもので、築地明石町の絶唱を始めとして、近年の慶喜公もよければ、哥妓図も一葉も良い。(ぼくは今残念なことにはまだ近作の藤懸さんの肖像を見てゐない。)イヤなものは一枚もないのである。美術として個性の厳密端正なる吟味を通過してゐる仕事に、親疎は
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