さへ持てば、此の人はこの人の[#「この人の」に傍点]絵をかく人である。美術の的からそつぽを向いたやうなへんな絵は予めかくことを欲しない人である。鏑木さんならば常に大丈夫安心成る人である。技術が手堅いの、何が安心成るのと論ずるよりも先きに、その「人」が手堅く、従つて見識が手堅く、趣味神経が手堅い。そしてそこから出て来る技術様式であるからこれも亦手堅いわけ。鏑木さんは大丈夫の人である。
 しかしその大丈夫な、常に安心成る人の多くの作品の中でも、円朝像はまた格段のピッチに上つてゐたと思ふ。どうしてだらうか。
 ぼくは思ふに、円朝像の場合の鏑木さんが、一番、鏑木さんその人の個性よりもより以上逼迫し、突進して、美術の殿堂そのものゝ中へぢかにはひつて居られたからだと思ふ。それは一つにはさういふ百尺竿頭の業のこの人は成る作家だといふ論証になる一方、ぼくなんかはそれだからこそ、慾でなく、鏑木さんに「鏑木さん以上」を求めたい一人となる。鏑木さんは常に個性鏑木清方の軌道は寸角の作にも決して曲げない作家であるから、一応も二応も美術として、先づそれで良いのであるが、円朝像の不可思議はこの人の作として我々に作の
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