ふ迄もなく鏑木さんがさしゑ風のものをかきたいといはれ、自分はさしゑ出身であるといはれる場合も、そこに微塵も自ら卑うする悪趣味など介在せず、本当のことをそのまゝいつて居られるので――たゞこゝに、一つだけ鏑木さんにもし「間違ひ」がありとすれば、鏑木さんは「插画家」として大時代の、殆んどその今は唯一の面影の方であるのに、御自身(余りそれが身に付き過ぎて居られるために)その大時代といふについて御存知無く、さしてこれに関心なさらない。さういふ鏑木さんの一つの「間違ひ」は発見出来ると思ふ。が、これが今ではタイヘンなことだといふことである。
 例へば名は同じ随筆といつても、大多数の近頃の随筆ものと幸田露伴さんの随筆とでは、その重さや、構へや、格に、大した開きがある。これと同じことで、さしゑも大時代の「清方ゑがく」は、今日いふ「ホン絵」よりも「展覧会制作」よりもずつと純真無垢の、一途に美術的なる、絵らしい絵といつて、然るべきものである。
 鏑木さんはこれを指して平々淡々と「さしゑ」といひ、自分はその出だといつて居られるのである。御自分の実感はそのほかに「さしゑ」を御存知ないから。
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