分達はこの口絵をかゝされる事を如何に待望しただらう、如何にこれに力をつくしただらうといふ意味のことを、述べて居られる文章があつた。また、次のやうな文献がある。それは談話筆記であらうが、明治四十四年に春陽堂から出てゐる「現代画集」に鏑木さんの署名で載つてゐる文章の一節である。
「……私自身としては将来は插画画家としてよりは寧ろ展覧会制作に全力を尽す積りでありますが、然し插画の研究も全く之を棄てず、傍ら大いに研究を続けて行つて插画の上に多少の貢献を致したいと思つて居ります。」
そしてその後、鏑木さんがこの明治四十四年の言葉通りに着々善処されたことは、衆目の見る通りである。しかも昭和最近年に至つて鏑木さんが「私は本当は展覧ものよりさしゑ風なものがかきたい」としみじみ云はれるのは、推し計るに、これが三十二年以前の明治四十四年だつたならば、「……寧ろ展覧会制作に全力を尽すつもりであります」といはれたのと、等しく美術する虚心においては全く同じ心操に、発するものと考へられる。それでなければぼくのやうな後進をつかまへて「自分はさしゑの出であるから」と同じく淡々として心懐を述べられるわけがない。
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