る。
それもなにも別段殊更に上野の駈け方を俄かに稽古された、いはゆる「駈け出し」なんぞではなく、十分それ迄のさしゑ時代に、さしゑ・ホン絵にかゝはらぬ正しい絵画を、同時代の大選手達の中で、共々、研鑽された方であつた。その中でいへば、若い最前線の花形であつたわけである。
をかしないひ方をすれば「さしゑ」スクールから「上野」へ派遣された、代表選手だつたわけである。やがて時が変ると、石井鶴三が「上野」から「さしゑ」スクールへ派遣された代表選手となつたやうに。
鏑木さんの先生水野年方さんが始めて上野へ作を問はれるために仕事を精進された模様を鏑木さんに聞くと――それを鏑木さんは文に記して居られたが――その頃ほひの先人の画室の神聖さなり画壇の緊張が偲ばれて、頭が下がるばかりだ。その後のたうたうたる、上野へ只ポスター・ヴァリューだけに絵を出品する下賤の風などは、鏑木さん始め画壇の先輩は、誰も経験せず、考へてもゐなかつた。
たしか日本風俗画大成の解説の中であつたと思ふが、鏑木さんは、明治の版行絵画の中にさしゑと口絵の別があつてさしゑは単色版、口絵が極彩色木版の、書籍の巻頭にのこるものである。が自
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