水道橋のところ、野球場の片わきに、昔は砲兵工廠の本屋だつた古風な赤煉瓦の建物が、いまは既にこなごなに壊れてわづかに礎石の残る跡を見るだらう。つい先ごろまではこんな片々たるものも、それでもコンドルさんをしのぶ懐しい一つの影だつたものである――とに角われわれ年輩のものは、少年のころに積木といふ、小さい木片で出来た、ねぢねぢの塔や門や、三角の屋根や……これに赤や青の簡単な彩色をしたもの、それらを組立てて楽しい「西洋館」を造る、さういふオモチヤを持つて遊んだものだつた――「コンドルさん」の文明が、われわれを遊ばせ楽しませてくれたものである。よしんばいまは壊滅したといつても、現在の形になる前の赤煉瓦だつた上野の博物館を知らぬ人はなからうし、又丸屋根はその後変つたといつても、まさかニコライ堂を知らない東京に住む人はあるまい。――これもコンドルさんが建てたものである。
 ジョサイア・コンドル博士は英国から明治十年に来朝し、滞日四十四年の長きにわたつた人で、新興日本に関して、少くもその建築部門にかけては「先生」以上の「親」ともいふべき、慈教至らざるなき立場をとつてくれた方である。帝劇の出来るとうに廿年も前に、われわれの東京に劇場を備へたいと心されて、その完全な設計図も引いてくれてゐる。帝国大学も、三菱の建物も、およそ赤煉瓦の古風なしつとりしたものは[#「およそ赤煉瓦の古風なしつとりしたものは」に傍点]此の東京でコンドルさんならざるはなかつた。


     十八、外人画家

 日本にはいろんな外国人が来てゐる。――明治以前にはそれも「南蛮紅毛」のものよりも隣邦中国の先達に依つて親しく導かれたものが多いが、開国後は、断然「南蛮紅毛」総じていふ「西洋人」に教へられて、開眼するものが少なくなかつた。いや全般であつたといつて良いだらう。「南蛮」は、歌にいふ「あんなん、とんきん、じやがたらで……」それでもそさまが眼に付いた、と、一ころは芸妓屋の下地ッ子などもうたつたものだつた。じやがたらはジャカルタ。――南方何々共栄圏などといはれたあの辺一帯の洋人を指したものである。これに擬へて「紅毛」は、これぞ西の、本場の洋人であらう。
 小林清親は、卑近にいへばポンチ絵の開祖、歴史風に見れば数々の東京風景を残した明治画壇の逸才であつたが、当時横浜にゐた英人のワーグマンに絵の教へを乞はうと、志を立てたことがあつた。しかるに何かのかどで、ワーグマンにクツで蹴られたとかのことがあつて以来、断然今後は油絵の筆を折る、と志を代へたのであつた。それで清親の東京風景版画が残つたといはゞいへ、またこの人にして、油絵をより一層学んだならば、別に面白かつたところもあるだらうなどとも考へられる。
 ワーグマンは英国の軍籍にあるもの(陸軍大尉)だつたが、スパイに非ざるやの疑ひで、有島さん(生馬氏)の父上あたりは――横浜の税関長を奉職された――その行動を監視するためにワーグマンの足跡を追つたといふやうな話も伝はつてゐる。少くとも絵は素人と雖も大家以上だつたらう。よくいふかうもり以外よく飛ぶものゝ無い(洋画法にかけては)その時代の日本にとつては。――後に至つてその「素人」のワーグマンがかたことで教へた西洋画術は、イタリヤ人フォンタネージの工部大学で教へた正規の画学に依つて、理論的な筋道へと置き代へられ、ワーグマンの門からは五姓田芳柳、高橋由一等が現はれ、フォンタネージの門からは小山正太郎、浅井忠、松岡寿、山本芳翠、五姓田義松等々逸才が出て、この辺に、日本洋画の道は、開眼を見たのである。
 ジョルジュ・ビゴーといふ人がゐる。ところがビゴーはどうかすると片々たる漫画画工として看過され易いに反して、その履歴はといふと、却つてワーグマンよりも筋の正しい本格の仏国のアカデミー出身の人で、明治十六年に来朝してから、先づ改進新聞に招かれて人事風物のスケッチを試みるかたはら、その鋭い、感覚の優れた「眼」に依つて、沢山の明治日本の生き生きとした素描を描き残してゐる。
 レガメーといふ人があつた。この人は前後二度来朝したらしいが、却つて日本には全然といつてよい程記憶されない画家でゐて、初めて日本人に本格的なフランス印象派の講演をした(明治三十二年のこと)のがこの人で、多少ネコに小判式の、未開地に過ぎものゝ「先生」だつたかもしれない。日本紀行の本を絵入りで著はしてゐるが、その中のこん棒片手の巡査の像や、江の島の茶店の女中の面影などは、浅井先生を更に縦に掘り下げたやうな、本格水彩で、稀品とするに足る。


     十九、広瀬中佐

 所詮「開化」の行跡は外来に学んだものゝ、日本には建築の面白いものはその意味で多少見られたが、記念像(銅像)の佳品は少なかつた。銅像といへば大将でなければ、キフキンを集めて会社の社長の似顔を建てるものといふ式に、わるく通念化されたのは、残念なことである。これらが戦争の期間に大抵撤去されたのはかへつて良いことだつたかも知れない。最後に東京には、上野の西郷さんを初めとして、数品が残り、特にさうえらんだわけでもなかつたらうが、その残された数品が何れも「西洋手法」に基く作といはうよりも「和製品」であつたのは、やがて後世の検討に対して、一つのテーマを与へることになつた。
 ――ぼくは、その後の現状を見てゐないから、はつきりしたことはいへないけれども、楠公の像は、それがキンだといふので、カブトの前立ちを二本とも盗まれたまゝ、あたかも近代の部隊長が鉄カブトで現はれたやうな頭の恰好に変つて、宮城前にとぼんとしてゐるといふことを聞いた。
 ――美術品の毀損や盗難についてゞあるが、フランスでは、国管の美術省に一切その辺に関する処置権限が任されてゐるやうである。有名な事件のルーヴル美術館からモナ・リザの像が盗まれた時にも、捜索から発見、発見者への表彰、一切の手続きが、美術省の手で行はれた。
 日本ではこれが「盗難」ともなれば、クツ一足から国宝に至るまで、一切その処置権限は関係筋とは切離された警察行政の「専門部」へ渡されるのだとすると、専門へ渡されたからその探求検挙の手順が早いかといふのに、必ずしもさうでない、将来性としては、これは帝国芸術院あたりの権限に委ねられるのが理想的だと思はれる………
 永年須田町一角の「親知らず」に屹立して、近ごろではその台上のポーズを「交通整理」などと悪口にいはれながらも、ナントナク都民に愛されてゐた広瀬中佐の銅像も、撤去の運命となつたのは、致し方なかつただらう。銅像作品としての出来は遺憾ながら惜しまれて散る花ではなかつた。たゞ「須田町の広瀬中佐」が都民に感傷を与へるだらう。明治四十三年以来あの一角に建ちなじんだものであつた。渡辺長男氏原型。岡崎雪声氏鋳造のものである。
 最近あの銅像を撤去する時、下の杉野兵曹長は場所が低いから無事に台座を下ろしたけれども、高い方の広瀬中佐は、いきなり像身に綱をかけて下からひいたために、無残や、転落して、さすがに土地の人々は、見るにしのびなかつたといふことである。漢詩風に云へば、三十八年唯一夢。


     二十、舶来即上等

 今いろんなものが無いといふ。紙が無い、筆が無い、墨が無い……然るにわれわれ昔を回顧する時、どのツラ下げて、無い無いづくしをこぼしてゐられるだらうか。寧ろ「無い」ものは、画文に依らず、政治にも、商道にも、エスプリ(心)であつて、他のものは却つて皆「有る」のではないか、などと。
 明治初年、西洋画法を志した程のものは――これは、或る意味の国士であつたが――エスプリこそ有つたゞらう。他には文字通り何にも無い中で始めた。小林永濯は、南蛮渡りの銅版画を模写するのに、紙、無し。ペン、無し。インク、無し。それにも拘らず、大版の美濃紙を以つて、極細の真書きに墨汁を含ませ、その毛筋のやうな線を縦横に引いて「銅版画」を「毛筆画」に写してゐる。
 その遺品を、時々上野の博物館にかけ替へで出てゐるのを見る時、ぼくなんかは身につまされ、思はず陳列棚のガラスの前で、絵に向つて頭を下げずには通れない。
 当時の人は鉛筆を木筆と称してその一本をも貴重愛惜した。洋紙を獲ようがためには、横浜まで出かけて商館から、舶載して来たものゝ荷物の包み紙を乞ひ求めたといふのである。
 その折り目の無いところを、丹念に切り取つて寸角を獲る。これが世にたつたそれだけしか無い「用紙」だ。これに一筆三礼して絵画をモノした。
 われわれどうして「紙が無い」などといつてゐられるだらうか。
 洋画の学生は今でも初学に石膏像の素描をするけれども、これはフォンタネージ先生がイタリヤ・アカデミーの風を日本へ移入されたときから始つた定規の学習方法で、そのころはこの Plaster Cast を白人形といつた。油絵を描くには所詮外来の彩料に待つ他なかつたわけだが、これは貴重この上ないので、陶の土に荏油を交ぜて加工したものを白に使つたといふ。「白」には相違ないが、元々茶色がかつた上に、荏油といへば、わかり易くいへば提燈屋、傘屋の紙の上に塗る、あの油なのである。完全の色度を獲ることは出来ない。
 明治時代には総じて文化的優質の品物類は外来のもの、いはゆるハクライモノに限つて、内国製は出来なかつた。それが追々と「和製」でも出来るやうになり、従つて簡単に手に入るものとなつたが、品質はおちたのである。――その品質が漸く良くならうとするところへ、戦争に出あつて、機構の潰滅を見たのだつた。
 当分またわれわれはもう一度「舶来即、上等」のある期間を経験するのではないかと思ふ。


     二十一、唐草模様

 安政六年――西一八五九年、松陰、左内ら刑死せる年――日本へ渡来した米国の神学博士にブラウン氏 Dr. S. R. Brown があつて、基督教の伝道に尽し、英語会話編を編んだり新約全書の翻訳など行ひ、横浜にユニオン教会を建てゝゐる。思ふに博士の連れて来た建築工に依つて建てられたか、あるひは当時横浜にゐた建築家に依つて建てられたものであらうが、それが純日本家屋の屋並の間に丈高く建つ古い写真を見ると――その形が宛然中国の河南の町で見た教会堂の建物なり、その周囲の景色に、そつくりなので、一時代前に「牧師」といふ一個の「人」と「教会堂」の建物とが、西洋から東洋へと啓蒙事業にやつて来た足跡をそこに見る心地がする。
 河南は古くは洛陽の旧都である。そこの教会堂の牧師はフランス人だつたが、中国の奥地旅行にはピストルが是非必要だ。持つてゐるかと聞かれた。――日本もこの節の人心不安では、外人の旅行者にいつそんなことをいはせまいものでもない。
 戦争中は東京のいろんな建物が軍事用に使はれ、帝劇なども情報局の表札をかけて、今思ふとあの全然用途の違ふ建物がどんな具合に使はれてゐたものか、ぼくの行つて見た時には、廊下の柱と柱の間に小屋のやうなたまり[#「たまり」に傍点]が出来て、係官がそこに股火などしてゐた。
 情報局はその後、元の参謀本部の建物へ移つたけれども、参謀本部の建物は戦災につひえたものの中での、東京で惜しいものゝ一つだらう。殊に建築の内部の壁の装飾や、照明器具や、室内調度、各室のとびら、窓、階段、天井……などのつくりが生きた建築史だつた。
 それは前にもちよつと記した通り、規矩装飾は外来の法に学びながらも、実地の仕事は、日本の宮大工系統のものなぞが「墨繩」を引いたもので、今でいふブリキ屋を「飾り屋」と呼んだころの、何れも誠実丹念な仕事振りで出来てゐた。
 開閉窓のちよつとした金具やとびらのつまみにも滋味きくすべき良い仕事が見られた。図は壁紙模様の一部を写したものである。
[#情報局の壁の模様の図(fig47728_07.png)入る]
 戦争当時はわれわれの方にも美術報国会といふものが出来、時々情報局にも用があるので、「旧参謀本部」の建物へ行つたものだつたが、ぼくはその度にそこの装飾調度を見るのが楽しみだつた。
 正面大階段の大きな螺旋状なした立派な木材の手すりは、その小間に痛々しく白木の板が
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング