町、肴町、江戸川の大曲、富坂、春日町。これで元の本郷三丁目「かねやす」までの起点へもどる。この円の中の下町は昔から手堅かつた商家筋であるし、山の手は名だたる武家町で、丸の内本丸の外廓を成してゐる。
 同じ中心からの線を川まで延ばして見ると、右の二寸一分が四分延びて、二寸五分半径で永代橋へぶつかる。そのまゝ同じく円を描くと、永代橋から南へと、佃島の川寄りの線をかすめて、勝鬨橋から浜松町、大門と上陸し、芝公園をよこぎつて赤羽橋、飯倉片町、――龍土町、青山墓地、神宮外苑、台町、若松町。円周は北進して、早稲田南町、山吹町、江戸川、清水谷町……と、地図の上で見るわづか四分の差であるが、二寸一分半径の円周が区切つたところよりは、ことに昔はさぞ辺ぴだつたらうと思はれる西北部、早稲田大学のエールにいはゆる「都の西北」へかゝる。
 早稲田大学は明治十五年の創設であるが、名の如く早稲田たんぼのたゞ中に展かれた大隈氏の学園で、こゝから西へ高田馬場へ騎行すると、昔は将軍臨幸のやぶさめが行はれた。今風にいへば、ゴルフが行はれた。界隈に打展いたゴルフ場であつたといへばよいだらう。
 早稲田の一角をよぎつた二寸五分半径の円周はそれから東進して、小石川表町、福山町――この辺にそのころ新興の「銘酒店風景」を材として、樋口一葉が明治二十八年に小説『にごりえ』を書いた、当年の新開地――それからがけを越して、西片町、本郷森川町、帝国大学へと進み、下町に転じて、不忍池、上野町、竹町、向柳原、両国橋と円周は南下しつゝ、浜町、箱崎町、永代橋と、起点へかへる。
 以上はつまらない机上の思ひ付きの「東京地図円周遊び」のやうなものではあつても、前の二寸一分半径の中と、後の二寸五分半径の場合との開きの、四分のところに、例へば本郷でいへば、例の「かねやす」から東へ数町の、切通坂界隈を含んでゐる。
「切通し」は古く下谷から湯島台へと通路を切通したところから来た名だが、元禄のころから町並地となつた土地柄で、一ころは徳川家康に従つて浜松から東下して江戸城の工事に従つた大工の棟りやう十人が拝領した――これが湯島片町だ。下町から高台へと抜けるにはどうしても通らねばならぬ切通坂ながら、これがためし斬り、抜打ちの名所で、江戸の親知らずだつたといふ。さういふ「江戸の外」が半径四分の開きの中にある。


     十五、永代橋とその橋脚

 石井鶴三のところへ近ごろある本屋さんが、草稿のまゝの「東京名所」ともいふべき、四十七枚とぢの木版下絵を届けたが、目出度く鶴三の書庫に納つて、いまぼくが、これを借覧してゐる。鮮斎永濯ゑがくところの肉筆「はんした」で、東京名所それぞれの極く忠実な、実地写生に成るものだ。明治も廿年とは下らない。十年かれこれの製作であらう。よくある千社札を四つがけにした大きさの、幅七寸二分縦五寸一分。普通「小判」といふ名所絵版画の定式の形であるが、墨で図取りをして朱で直しが入れてある――このまゝ板木にかけて彫つたならば、既に墨版は出来上るまでのものだが、思ふに版元の見込みで、版行にかけなかつたものだらう。絵が何れもすこぶる地味である。版行してパツと「受ける」といふものではなかつたかもしれない。
 その地味で、パツとしないだけに、また、質実は、この「はんした」本の(われわれにはかへつてその方が有難い)特徴となるもので、ぼくはその永代橋図を見てゐるうちに、その橋クイ橋脚に関する示唆の、「東京の風俗」にかけて、小さからぬものゝあることを感じた。
[#永代橋の橋脚の図(fig47728_05.png)入る]
 元来江戸風――日本建築風――の橋の場合には、欄干から橋ゲタへかけての見付きを、横の木組み二本引きに、平行したのが、古来からの例であるが、明治初年製の橋には、これが一ころのロシヤの旗のやうに、十文字を斜め横に置いた形のぶつちがひに、木を組んだものが多い。そしてそれが小さい橋よりも、名だたる大橋なり、主要の橋に多い。木も素地《しらき》よりは黒で塗つたものが多く、一時の日本橋、柳橋、両国橋、永代橋など、皆これでないものはない。と、いふのは、これは、日本固有の風ではなく[#「日本固有の風ではなく」に傍点]、西洋伝来の橋のやり方を、材料は昔のまゝの、木材で刻んで、橋に造つて架けた、そこで出てきた新形式である。いつ如何なる日本の橋の欄干にも、木組みをぶつちがひに渡した形ちといふものは、明治初年の、これらの橋の外にはない。更にこれの注意すべき点は、この形式は、西洋の鉄橋を[#「西洋の鉄橋を」に傍点]、構造風にまなんだから出来たといふことだ。
 明治初年の名ある建築物は先づ例外なく初めすべて外人の手に成つたものだつたが、その材料は、相当の不便をあへてして、純西洋風に、石あるひは、鉄材によるものが少くなかつた。そして内部の室々の木取りとか階段などを、木で造つたのも、初めは外国人の指揮につれて、日本人が組下でやつたのである。
 明治も年を食ふと、次第に建築全体を日本人がやることになつて、それには材料を、木、カハラ、漆食などの「日本的な」お手のもので行つて、石、鉄の類は余り使はずにやる。しかもその様式は、構造の大本から、見つきから、見るからに西洋風に建てゝ、しかも必ずしも模倣だけのものにはしなかつた。外人ならば石でやつて、木では出来ないところを、日本の洋館大工は、カンとすみなはで、材木の上へ素描を引き出したのである。お堀端の昔の参謀本部だつた建物へ行つて見ると、この面白い跡が内部に沢山残つてゐたし、山の手界隈の明治初年建ての、当時としてなかなかカネのかゝつた個人邸宅に、この面白い例が至るところ見られたといつて良い。
 石や鉄の素材を日本化して木や漆食の使ひごろに換骨奪胎しながら、法を外さず、寧ろそこに、「明治日本」の新機軸を出した棟梁達は、元、宮大工だつたと聞いたこともある。――橋梁大工にも、また船大工にも、明治初年のはうはいたる進取の風雲の中には、同じ一連の、たゞではすまさぬ新工夫の人々があつたことゝ思はれる。永代橋も、所詮はそのグループの、気鋭斬新な人々が渡したことだつたらう。後のことになるが、日本の建築様式に鉄筋コンクリートが採用されようとするころ、その新機運にトップを切つた、東京駅の辰野博士は、いはゆる「たてまへ」の日に、自ら巨堂の鉄のけたを登つて、「これでよいかどうか」クツで親骨をカンカン踏んで見たといふ話が伝はつてゐる。これは伝説だらうが、古武士の面影などはうふつとする、一種の近古美談とするに足るだらう。
 永代橋は川筋の潮入りを直接控へた水瀬の難かしいところと聞くが、橋クイの下には、欄間の出入りをやくして、橋脚の防備に、別のみを[#「みを」に傍点]のやうなものが上下一本づつ打込んである。これは水流をそこで一先づ押へたものと思はれる。――後の永代橋は震災後、復興して架橋するに当り、橋の重量をつつた橋上のアーチと、橋下の空間の大きなカーブ。あの空間を最大根の広がりに取る計算が、構造の上からいつて、一番難しかつた、と、当時その係りの人から聞いたことがあつた。昔の永代橋の人も同じ橋脚と、水瀬の関係をにらみ合はせて、さぞやこれに一番苦心したらうと、想察に難くない。
 橋クイは江戸時代の構造のやうに木と木を持ち合はせて井げたに組み、それで上と下への力を分け合ふ在来の方法を採らず、Yの字形の木組みに作つた。これは古来純日本のやり方にはなかつたことで、殊に大橋には、画期的の形式だつた。家屋建築の西洋風な支柱について見れば明らかなやうに、その構造のぢか[#「ぢか」に傍点]のあらはれだつた。新橋駅ホームの場合とか、議院建築の正面や側面には当時、この新形式が、はつきりと見られた。それを水の中へ持つて行つたもので――さればこそ、最も重大の橋脚を洋式の合掌に組んだ以上は、上バの欄かんに至つて、型破りの、角材のぶつちがひを組ませる新スタイルも、当然のこと、いふべきだつた。
 永代橋は古くは元禄年間、初めてこの位置に架橋された江戸の大橋で、Y字形橋脚の木橋は、明治初年に架け替へになつたものである。


     十六、三代つらぬく筆硯の荘厳さ

 幸田露伴先生がつひに逝かれた。明治・大正・昭和三代に渉る巨豪の存在であつたが、最後はずつと床につかれて、耳も眼も健やかでなかつたにかゝはらず、一つ残る「くちびる」を通じて、「芭蕉七部集評釈」の口述を完成されたといふことは、立派な堂塔が年月によつて自然に壊れて行く荘厳さを思はせる。既に余程前のことだつたが谷崎さん(潤一郎氏)が露伴翁の活動にこと寄せて、今先生が現に筆硯に従つてをられる壮観といふものは、劇界に例へていへば、市川団十郎がなほ健やかに舞台を踏んでゐる奇跡と同じことだと、はつきりいはれたことがあつた。谷崎さんがこのさん嘆を新たにされてから、なほあとに、老先生はいよいよ仕事を残されたのだから、だう目すべき貴いことだつた――文豪の国葬をといふやうな声のあるのも道理である。
 われわれ年輩のものも、「ひとり」で置いておくと、互ひに四十、五十ともなれば「年とつた」感慨無きにしも非ず、ところが露伴先生のやうな大存在をかたはらにして思ふと、ほんの小僧つ子の、「これからだぞ」といふ式の「勇気」を鼓舞激励されるのは、錯覚かもしれないが、必ずしも間違ひではない。又こゝに奇妙なことには、とうにその昔「紅露時代」を荷なはれた先生が亡くなられたことは、それが「今」ではなく、紅露と並んでうたはれた時代の立役団十郎、菊五郎などの死んだのが、又々逆に「昔」ではないやうなまじり合つたアナクロニズムを感じることである。団十郎は兎角「文学」には縁遠かつたといはれるが、若し接近させるとすれば、当時の識者たちは紅葉よりは露伴に、と考へたらしく、団十郎が死んだのは明治卅六年のことであるが、政府筋から個人として伊藤侯の弔詞はあつたが、公式のものは何も無かつた――いまから数へれば四十四年以前となり、露伴先生はその時卅七歳、あぶらの乗つたさかりで、丁度その年の九月廿日が、団十郎を青山墓地に葬る秋雨の日であつたが、あくる日の廿一日から、読売新聞紙上に、露伴先生の長篇「天うつ浪」が連載されはじめたのであつた。
 ――といふ具合に回想して見ると、何かその待望の長篇が、また今にも紙上へ載るやうな感じを起させる。しかし、間違ひなくこれが相当遠い昔語りなのは、「天うつ浪」の連載がはじまる前の月から、東京には有楽町、神田橋と、新橋、品川間に、馬車に代つて、初めて電車が通りはじめてゐる歴史であつた。――その時分からのうつ然たるわが露伴先生だつたといふことである。


     十七、コンドル博士

 コンドルさんといふ名を今の若い人たちは知つてゐるだらうか、もしぼくが何処か役所か新聞社の人事係だつたとすれば、人を採るメンタルテストに、Dr. Josiah Conder について知るところを述べよ、といつたやうな問題を出しても見たいと思ふものゝ、一ころは東京に、「コンドルさん」をしのぶ記念――否、記念といふよりも、もつと現役に生きたものだつた――これは至る処一杯だつたといふも過言でなく、しかもわれわれ日本人は、日夕、この眼に触れる「コンドルさん」に知らず識らず訓へられ、導かれたのである。霞ヶ関の日比谷公園寄りにある海軍省などは、何は無くとも、諸外国に新興日本の「威」を示すために、官庁のイレモノは立派にと、当時の伊藤政府が心をくだいて打建てた記念物で、これがコンドル博士の設計に成るものである。
[#コンドル博士の図(fig47728_06.png)入る]
 ――その後はどうなつたらうか。東京のかう壊れない前は、浜町公園に行くと、園内に誰しも何だらう?と思ふ、西洋のお宮のやうな、一基の建てものがあつた。これが、さゝやかながらコンドル博士を記念した「堂宇」といへばいへたやうなもので、諸方のコンドルさんが手がけた建築物の遺品をあつめて作つたものだつた。ああその遺品さへも、今は現にこの東京で、手に入り難い。
 省線電車でお茶の水から
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