づつボーボー吹き出すガスであつた。それを文字形に連結した細工である。とんと今でいへばガスコンロの火を遠目に見たやうな形の、そばへ行くと、ゴーゴーものすごい音がして、風の少し強い晩は、字形は半分以上吹き飛ばされて読めなくなる……原始的なものだつた。しかし心うれしく見たものであつた。
まへに述べた、雪月花の広告壁画の目立つた石町の曲り角には、やがて時代が変ると、こんどは屋根のうへの大招牌に、ペンキ絵の、これも大きな人物画が、宗匠帽子の柔和な老人となつて現はれ、そのわきに句が入れてあつた。「江戸の気に今日はなりけりのりの味」と。のりやの広告ででもあつたものか。
この絵は、現存六十翁の斯界の先達が、壮年のころに執筆した大作だつたといふことである。その人の名を長谷川カズヲといふ由。
[#燈火広告の図(fig47728_04.png)入る]
十一、生活の色
世の中の一変した有様は終戦後三年にして、省線電車の環状線を一周りして「車内の生活」を見ただけでも、明らかとなり、旧時代の色は一と先づかき消されて、新しい「色」がそこに塗られたやうである。恐らくこの「色」は、塗られたにしても、一時の扮色であつて、やがて又変るであらう。変らなければならないとも思ひ、これが地色であつては、「時代」も「国」もたまらないと思ふものゝ、仮りに名づけて「敗戦色」とそれを呼ぶ外にはないものだらう。
人々の服装の国防色ひと色はひとまづ見られなくなつた。十分の質の服装ではないにしても、適度の身だしなみは整つて来たこの節の傾向は、「敗戦色」の中ではいゝ色の分子である。中に若い男や女が飛び離れてよい――といふよりは派手な、きらびやかな服装をしてゐるものがある。思ひ起すのは、大正のころに、いはゆるモガの、断髪が流行し始めたころ、大胆かもしれないが蕪雑さは目をおほはしめた、ヴァルガーな風俗が世代の色だつたことである。それが昭和の絵羽模様に金糸銀糸まで行つて、「敗戦前奏曲」を奏でたのであつた。
近ごろ、はなはだしく若い娘姿に和服の「紅」系統の色目が目立つし、若い男に、ポマードでてかてか固めた頭髪が増えて来た。電車強盗の青年も何れもこのポマードで固めた頭だつたといふ。娘衣裳の「紅」、一体あの染料は、一番安直に簡単に染附く、つまり「染粉」であるから、今のやうな時代には、一時必ずこれが氾濫するのであらう。戦争前の、そろそろ町に物資不足を訴へた時分にも、デパートといふデパート、その他、浅草、銀座、人形町……あたりの衣類店が、一斉にベニ赤ッぽいべらべらした染地の着尺ものを店頭に飾つたことがあつて、ぼくは町の「風紀衛生」の上に、この安染料ものは感服しないと思つたことがあつた。
ある日、中野の市場で、そこに駆け込んで来た彼女達の一人を見たことがあつたが、クチビルと手のユビ先をひどく真赤にして「あの、ナイロンの一番長いクツ下あります? 値段はいくらでもいゝの……」と高飛車にいひ込んで来た。
思ふに「ヤミの女」の風俗なり生活ぶりは、一般の娘達の趣味嗜好に影響せずにはおかないだらう。
電車のどうやら空いた箱へ乗り込むと、極めて電燈のうす暗いその一ぐうにポマード・ボーイズが一団を成してゐて、その一人が腋でズーズーいふハーモニカを吹いてゐたが、曲は……「おこるのは、あつたりまへでせう」といふあの歌だつた。これを繰り返して何度も吹き鳴らし、東京駅を出て、お茶の水へ来るまでつゞいた。前ならばやがて検査といふ年ごろの者たちだらう。
その時、吊革の、ぼくの伸ばした右手の片わきに、二人、若い娘さんがゐて、ちらッと聞えたその会話の一節が……「悲観するのおよしなさいね。自殺なんてダメよ」とは、果してどの程度の言葉の意味で、何の話をしてゐたものだらうか。
ぼくは中野で降りて、暗い町を早足に歩いて帰つたが、その途中ですれちがつた男達が……「美の表現は、きみ」と大声に話して歩いてゐたのは、これにもまた妙にオドロいた。
十二、綜合展覧会
この春の上野は引続いて各展覧会の盛況を極めたことだつたが、かゝりもかゝるが、入りも相当にあるのは、「文化国家」とうたはれる声々の響きもあらうし、正直のところ、見るものゝ少ないせゐがあるだらう。実は見る楽しみは劇といひ映画といひ沢山にあつても、「少ない」といふのは、実のあるものが少ない。明治のある時期には絵画展覧会は、極く規模が小さく、これに反して、団・菊・左等の劇壇は比較にならず大きかつた場合があつた。――それから見れば、今絵画展覧会のスケールが大きくなつたことは取り敢えず、文化国家の名にふさはしいものと見て良いやうである。この春のある新聞社が主催した、名画展(フランス絵画展)の如き、上野にあれだけの人垣を築いたことは、絶後ではないかも知れないが、空前であつたことは確である。
今年は殊に新聞社の催しものが多く、規模も大がかりで、朝日の綜合展に次ぐ、今は毎日の美術団体連合展が開かれてゐる。
新聞の催しは、各社共これに乗りかゝつた以上、片々たるものでないし、宣伝も届くから、広く人を招く「展覧会」としてふさはしい行事ではあつても、やゝもすると「新聞社」は「敵本主義」の、アレがやるからオレもやるといふところがあつたり、殊にをかしい傾向とも欠点とも見えることは、A社が主催すれば、その展覧会が如何にすぐれたもの=報道価値充分のもの=であつても、他のB社、C社は紙上にその報道を一行も書かないといふかたぎが目に余ることである。これは面白いと思へない。
それと、新聞社の催しともなれば、強引にも行くから、機の熟すると否を問はず、やり出したらとも角そのやることをやつつける[#「やつつける」に傍点]傾き無しとしない。例へば果して今美術界の綜合展は、綜合されれば会に依つては同じシーズンに二回展覧会を繰り返すことになるがその必要があるだらうか、秋の官展に対する――官展は所詮アカデミズムまたはトリビアリズム一方のところであつていゝ、――春の綜合展は、名実共「綜合」といふたてまへで、大新聞社が若し共同主催でこれに当るといふやうなことになれば、それこそ文化国家の正しい名において、如何にふさはしからうかと、空想をする。
十三、森川町
「本郷区」を改正して「文京区」としたのは、大森・蒲田を合せて「大田区」とやつた愚案に比べれば、良い方だつたが、ぼくは、相当久しくそこの「森川町」に住んでゐた。東大の正門前を左へはいつたところだ。――この文京区の一角は、こんどの戦災に焼け残つた。
早くも四半世紀前とはなつたが大正震災のころ、ぼくが森川町にゐたのはその時分で、地震の時は丸二日間といふもの、近くにあとからあとからと揚がる火の手を見い見い、いざとなれば立退く身支度をして、森川町寸角の中にこもつてゐた。結局この時も、随分近くまで焼き払はれたに拘らず、あの一角は焼けなかつた――いはゞ浅草の観音様よりも、火事運の良かつた土地柄といはなければならない。火事運が良かつたばかりでなく、さてさうして、近年二度の大災を免れて見れば、その残つた姿は町そのものといひ、家々といひ、その各戸のなかの造作、畳建具に至るまで、広く「東京」といふ観点から見ての文献ものとなる。立つたまゝで骨董価値の出来た家々といふべきである。
すでにぼくが大正震災のころにその土地で住んだ家が、二階建ての借家の、実はそれが好みでその家に転宅した、見るからに「明治」出来の古い建物だつた。その「明治」も、中期以後へは下らない、万端の木組に出来てゐて、家中に「なげし」といふものが回つてゐず、戸障子の寸尺は普通よりつまつてゐて、軽く、二階の床わきには、西へ、突き出しの窓がとつてあつて、この出窓の手狭な天井が、丹念に細かい目の網代編みにしてある。柱も、二階縁の手すりも、廊下も、なんとなく家全体の寸が狭い。
そして室の中心の柱には、昔腕木にして取附けたガスの器具の跡があらうといふ……私がこの家へ越した時に、先づ遊びに来た友人の、田中咄哉州は、家の中を見ながら、笑つて、「古道具あさりがたうとう貸家の古道具にぶつかつたわけだね」といつた。
記録に依ると、本郷のあの辺は明治廿年左右までは一帯に雑木山と竹ヤブが多かつた土地を、廿三年ごろから、ぼつぼつ切開いた。人家が出来始めると、さうして「開ける」あの辺の勢ひは又早かつたといふが、僕の借りた家などが、さしづめそんなあの辺りの「草分け」に出来た一軒だつたらう。
十四、江戸のうち、そと
森川町はもと森川宿といつたさうで、与力に関係が深く、与力にこの土地柄の親属関係から森川を名乗るものが多かつたので、その「宿」とした由来の、中仙道筋の、建場の一宿だつたといふ。――かう聞くと、帝大のまん前もすつかり田舎めくが、もともと森川町は「江戸の外」である。「本郷もかねやすまでは江戸の内」といふ寸尺から計れば、ゐなかだ。
――これについて、亡くなられた佐藤巧一博士に、面白い話を聞いたことがあつたが、昔の都会生活、「江戸」では、中心地から一里半のところを、東西南北共に、自ら「場末」としたものだといふ。それで「かねやすまでは江戸の内」の寸尺が出て来るのだが、「一里半」としたのは、当時これを徒士で行く条件からの見つもりだといふ。博士曰く「丸の内へ一里半離れたところでは、活発な都市生活を営まうとするに、その江戸人に、いはゆる、出端が適さない。」いざといつて間に合はないといふわけだらう。
佐藤先生は笑ひながら、これを今でいへば、いろんな交通機関で銀座へ出るまでの時間、ざつと一時間――といふところを、ぐるりと大きく、円く、場末々々に見つもれば、良いわけでせうな、といはれた。
「呉竹の根岸の里、なんてところは当然、一里半の寸法から見て、隠居所のわけでせう。木村さんの今のおすまひは」とぼくに向つて「銀座まで出るのに何分かゝります?」
「さうですね、電車だと、まごまごすると『場末』になつちまふくらゐかゝります。バスや円タクでうまく行けば、その半分ですむし、ハイヤーで飛ばせば、十分。――」
するとその座にゐた小杉さん(放庵子)がいきなり佐藤さんに向つて手を振り「乗りものを何か一つにきめて返答させなければいけない。電車がいゝ。電車、電車。」
さういひながら、ずらりとわれわれ一座の中川一政、石井鶴三、ぼく、などの顔に一べつをくれて「さうしないと、このテアヒは、なるべく自分のすみかはバスヱにならない工夫をしていけない。」
そんな話をし合つて、夜おそくまで興じたことがあつたが、今同じぼくの家から、中野、鍋屋横町の近く銀座へでようとするには、どうもがいても「足」を、一時間半と、見なければならない。――さぞや佐藤先生はアノヨで、僕のバスヱ転落を手をたゝいて笑つてをられることだらう。
「かねやす」といつたのは、くどくなぞるまでもないが、戦災前までながく本郷三丁目の、西角にあつた名代の化粧品店で、兼康と書き、享保年代からの老舗で、元は町の反対側の角にあつたといふ。
丸の内から見てそこまでが「江戸の内」といふ川柳子のうがちは、故主兼康友悦の、場末に稀な花やいだ商法ぶりを、詠んだものだらう。
昔は三丁目から切通坂へと通る細道を、特に兼康横町とも呼び「乱香散と申歯磨売初罷在」などとも古い文献にのこる。小態《コテイ》ながらも、江戸名家の一つであつた。堀部安兵衛が、この家のかんばんを達筆に書き下ろしたものが、また名うてゞある。
今試みに縮尺四万分ノ一の大東京地図の上で、宮城を中心に本郷三丁目までの直線を計つて見ると、これが曲二寸一分になる。この二寸一分を半径にしてぐるりと円を描くと、この円の中が「江戸の内」といふわけではないが、本郷三丁目より地図の上で右回りに東へと湯島新花町、秋葉の原、こゝで神田川を越えて、岩本町、大伝馬町、人形町、茅場町、八丁堀、新富町、築地、汐留と、「下町」を半周して、段々「山の手」へ、御成門、神谷町、箪笥町、氷川町、新坂町、青山御所、片町、市ヶ谷本村町、加賀町、牛込北
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