東京の風俗
木村荘八

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)渡舟《わたし》

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(例)※[#丸公、33−4]

 [#…]:返り点
 (例)不[#レ]残
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     一、東京「パースペクチヴ」

 亡友岸田劉生が昔、そのころ東京日日だつた今の毎日新聞へ、東京繁昌記の画文を寄せて、「新古細句銀座通」=しんこざいくれんがのすぢみち=と題する戯文をものしたことがある。(昭和二年)戯文といつても筋の通つたものだし、殊に絵は出色のものだつたが、仕事の範囲の相当手ひろかつた故人にしては珍らしく、印刷ものにこと寄せて「さしゑ」の仕事を遺したものとしては、これらがあと先きに例のない逸作であつた。
 編輯部から嘱されて「東京の風俗」といふものを、その岸田の轍に学び、自分の絵と文とで書くけれども、掲題の「東京の風俗」を僕は「パースペクチヴ」で書くつもりである。「バーズ・アイ・ビュウ」には扱はない。
 ――東京「バーズ・アイ・ビュウ」ならば材料を広く横にとらなければならないが、パースペクチヴで、縦に行くならば、材料は狭くとも主意は達しようと、勝手な解釈に。
 パースペクチヴは古風にいふ「遠見」といふほどの意味の、その眼鏡をのぞいて向うを見る場合は、文意の基づくところを多少考証めかして、在りし東京の一断面を水平線上の焦点距離へ成るべくカツチリちゞめて見たい意味。
 論文でも市街政策でも何でもないが、たゞ筆のすさびだけには終らない、何か読者に「そんなものかなアー」と思はすものがあれば幸だと思つてゐる。
 東京といつても「お広うござんす」こといふまでもなく、これをたゞ文献の上だけから探るとすれば、ペリー提督の秘書官にもよく江戸通志は机の上から書けるわけだらう。しかし実感の上からする場合は、栃面屋弥次郎兵衛も熟知するところは神田の八丁堀界隈だけのことゝなる。ぼくも日本中で東京だけしか知らない、眼界の極く狭いものだけれども、されば「東京」も今の大東京となつては、どれ程知つてゐるかといふと、実は却つて知らない部分の方が多い位である。元の山の手一帯から新「東京」へ編入された旧郊外地帯の大部分にかけて、文字通りさつぱり「東西南北」の見当のつかないところが多い。
「ぼく」の東京はさういふ知らない部分で一杯である。それも上からの「バーズ・アイ・ビュウ」で行けば、眼界はそれらにも届くであらうが、横からの「パースペクチヴ」でのぞくためには、知らないところは見えない。漸く眼鏡からのぞける範囲はといへば、こんど七十年ぶりに区名が変つていよいよなくなつてしまつた、日本橋、京橋、あるひは下谷、浅草などといふ一廓に限られるだらう。人体で云へばほんの爪先きぐらゐのものだ。
 パリへ行くと今でも「猫の首くゝり横町」などといふ古い名が町に残つてゐるさうである。何故東京も両国のトラや横丁であるとか、だいち、ぐんだいなどといふ名を、少しは残さないかと、まあ、「思ひ」はするものの、二度の焦土に向つてそんなことをあげつらふ料簡は、持合せない。――が、兎に角、私の東京は、狭い上に、剰さへ、大変化をした。
 私は愛古家であつても懐古家とはかぎらないので、万事につけて「昔を今に成すよしもがな」とは思はない。――もつとも現在のわれらはすこぶる貧困である。町を歩いても、うつかり「円タク」を呼ぶぜい[#「ぜい」に傍点]に至れないし、飲食店のア・ラ・カルトも、ふところ勘定抜きといふ自由奔放はやれないから、思へば東京生活も、昔は「やりが迎ひに来た」もので、美術館から上野の山下まで下りるにも車を拾つたものだし、頼まずとも町の行きずりにモカのコーヒーが飲めたものだつた。
 この意味では「昔を今に成すよしもがな」かも知れない。舌頭や足の先きのことばかり云ふのではない………


     二、お江戸日本橋

 東京がいつ帝都となり又「東京」といふ名になつたか、といふことは、衆知の八十年来の史実で――今さらぼくが喋々するまでもない――今では京都を西京といふ人も、その習慣もなくなつたやうだが、この「西京」こそは、新「東京」に対して、明治初年ごろに庶民の間で旧都を呼びならした、昔をいとほしむ一つの愛称であつたゞらう。
 東京もその発音は正規の読み方をされずに「とうけい」となまつて呼ばれる場合が少くなかつた。これも今ではさう呼ぶ人も習慣もなくなつたであらう。
「お江戸日本橋……」といふ道中うたが伝唱される。これもその後は――といふのは明治以後は――聞くことも少なくなり、雑曲ながら関西の「京の四季」こちらの「夕暮」「海晏寺」などと並んで、風物を詠じた写生唄の「古典」の一つとなつてゐる。
 一ころ寄席の芸で、はなしかの雷門助六が立つて踊る高座のお江戸日本橋は、「桑名の殿様」と共に、一芸のものだつた。派手な円遊の「綱は上意」や、飄逸喜ぶべき三好の「柳」とは違つて、妙な言葉ながら「本格的」ともいふべき、そのくせ動きをほとんど座布団のたけ幅一尺外へは出さない、内バ[#「内バ」に傍点]の足どりで、槍をふるつて見せる、と、大道狭しと行く大名行列もそこにはうふつとするのである。――つまりほう間[#「ほう間」に傍点]の座敷芸に演じたところを、高座に移した姿であつた。
 いはゞ踊りを盆栽に仕生けたものともいへるだらう。――今日ではほとんど見られない。
 序でだから書くけれども、近年「小うた」といはれるものに必ず振りがついて、特に小うた振りと称する小舞が行はれるが、小座敷あるひは小舞台の芸なるに拘らず、例へばその「こよひは雨」「心でとめて」など、新ものゝ「小猿七之助」等申すにおよばず、何れも動きをかへつて派手に大きくとるのは、大きくなければ絵でないと思つてゐる文展の出品画のやうにをかしなことであつた。かつぽれの梅坊主なども、戸外では立てものゝ相当大きなやあとこせ[#「やあとこせ」に傍点]を旗印しにはでに演つたものが、座敷芸の場合には、「深川」「坊さま二人で」の件りなどさへ、たゝみ一畳と動かずにさし[#「さし」に傍点]で二人十分に踊り切つたものだ。客席で立つほう間の踊りは、その辺に料理皿小ばちもある関係の畳半畳とは動かずに済む身ぶり足どりでなければならなかつたと、桜川長寿が話してゐた。
 小うた振りも「初出」などは足もとさへたてまへのはり[#「はり」に傍点]木の上を踏む心で行けば、三尺四方以内で――たてに深く――踊り切れるものと聞いた。これはやまと屋のいつたことである。
 諸芸の風も求心的な深みや味を主意としたもの(江戸ぶり)は衰滅して、遠心的に大きく動かうとする風(西洋風)が専ら行はれるものであらう。それが良く大きく行く場合はいゝが、やゝもすると内容はバサけ勝ちになり、味の浅さに対して、概して近年人が一般に鈍感になつたことは、否めないやうである。


     三、道中「上り」「下り」の唄

 お江戸日本橋の道中うたは、本文通り日本橋を朝明けの七ツ(四時)に立つて、高輪へ来てちやうちん[#「ちやうちん」に傍点]の火を消す。それから段々と西へ「京」へ着くまでの東海道中を、十八節に仕切つた、相当長いものであるが、今となつては、一九の膝栗毛や、川柳の末摘花を完全に解説出来れば、堂々たる文学ハカセだといはれるやうに、このうたも完全に解説が附けられゝば、取つて以つて広重の保永堂版版画にも裏附けとなる、文献が出来上るわけだらう。
 ましてこの道中唄には、先づ江戸から京へと「上り」があると同時に、向うからの「下り」もある。「上り」はやゝ一般にも伝唱されるが「下り」はほとんどいん滅してゐた。それを掘り出して、すでに廿年かれこれの昔とはなつたが、ある人から私にうつしを寄託されたものがある。この機会にそれを「虫ぼし」のわけで上下そろへて復刻しておくのは、古物保存の意味だけでなく、「その行文を味ふ」面白さからいつても、私の手記の文章などより数等上の、よきよみものとなるだらう。節はラヂオなどにこの頃でも時々放送されるから、かへつて歌の本文よりなじみ[#「なじみ」に傍点]が多いだらう。
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一、お江戸日本橋七ツ立、初上り、あゝこりやこりや。行列揃へて、あれわいさのさ、こちや、高輪、夜明けの、提灯消す。こちやえ、こちやえ(以下はやし略)。
二、恋の品川女郎衆に、袖ひかれ、のりかけお馬の鈴ヶ森。こちや大森細工の松だけを。
三、六郷あたりで川崎の、まんねんや、鶴と亀との米まんぢゆう。こちや神奈川いそいで保土ヶ谷へ。
四、痴話で口説は信濃坂、戸塚まへ、藤沢寺の門前で、こちやとどめし車を綱でひく。
五、馬入わたりて平塚の、女郎衆は、大磯小磯の客を引く。こちや小田原相談熱くなる。
六、登る箱根の御関所で、ちよいと捲くり、若衆のものとは受取れぬ。こちや新造ぢやないかとちよいと三島。
七、酒も沼津に原つゞみ、吉原の、富士の山川白酒を、こちや姐さん出しかけ蒲原へ。
八、愚痴を由井だす薩多坂、馬鹿らしや。絡んだ口説きも興津川。こちや欺まして寝かして恋の坂。
九、江尻つかれて気は府中、はま鞠子、どらをうつのかどうらんこ、こちや岡部で笑はゞ笑はんせ。
十、藤枝娘のしをらしや、投げ島田、大井川いと抱きしめて、こちやいやでもおうでも金谷せぬ。
十一、小夜の中山夜泣石、日坂の、名物わらびの餅を焼く、こちやいそいで通れや掛川へ。
十二、袋井通りで見附けられ、浜松の、木陰で舞坂まくり上げ、こちや渡舟《わたし》に乗るのは新井宿。
十三、お前と白須賀二タ川の、吉田やの、二階の隅ではつの御油、こちやお顔は赤坂藤川へ。
十四、岡崎女郎衆はちん池鯉鮒、よくそろひ、鳴海絞りは宮の舟、こちや焼蛤をちよいと桑名。
十五、四日市から石薬師、願をかけ、庄《しよう》野悪さをなほさんとこちや亀山薬師を伏し拝み。
十六、互ひに手を取り急ぐ旅、心関《こころせき》、坂の下から見上ぐれば、こちや土山つゝじで日を暮す。
十七、水口びるに紅をさし、玉揃ひ、どんな石部のお方でもこちや色に迷うてぐにやぐにやと。
十八、お前と私は草津縁、ばちやばちやと、夜毎に搗いたる姥ヶ餅。こちや矢橋で大津の都入り。
[#ここで字下げ終わり]
 行間に節もろとも淡い旅愁の漂ふ、そしていつもほのかにワイセツな、これを形に凝らせば、所詮は広重の名品が生れる東海道中のわび[#「わび」に傍点]であらう。道中筋の松並木はあたら戦争さわぎで切られてしまつたとしても、松籟の余韻は「日本」がある限りなくならないものである。
 道中の「下り」は――
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一、花の都は夜をこめて、逢阪の、あゝこりやこりや、夕つげ鳥に送られて、こちや、名残をしくも、大津まで、こちやえ、こちやえ。
二、瀬田の長橋打渡り、近江路や、まのゝ浦風身にしみて、こちや草津、石部の水口へ。
三、土山行くのをふりすてゝ、情山、心細くも坂の下、こちや人目の関をば忍びつゝ。
四、往来《ゆきき》をまねくをばな咲く、野尻より、亀山、庄野、石薬師。こちや追分行くのは四日市。
五、かひを桑名の渡しより、尾張なる、熱田の宮を伏しをがみ、こちや鳴海、池鯉鮒の染尽し。
六、岡崎通りて藤川の、流れなる、赤坂越えて御油までも、こちや吉田、二タ川、白須賀へ。
七、心新井の渡船、帆をあげて、扇開いて、舞坂の、こちや浜松越えて見附けらる。
八、袋井、掛川打過ぎて、日坂の、小夜の中山夜泣石、こちや菊川渡りて、袖ぬらす。
九、いはで焦るゝ金ヶ谷で、思はずも、花の女郎衆は大井川、こちや二八ばかりの投げ島田。
十、花のゆかりの藤枝に、思ひきや、かゝる岡崎真葛原、こちや夢か現か、宇津の女で。
十一、津田の細道はかゆかず、花染の、衣物の裾を振りはいて、こちや鞠子府中の賑ひな。
十二、江尻、興津の浜辺より、はるばると、三保の松原右に見て、こちや浮世の塵を薩多坂。
十三、我元由井の乱れ髪、はらはらと、蒲原か
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