けて降る雪は、こちや富士の裾野の吉原へ。
十四、原や沼津の三島への、朝露に、かけ行く先は小笹原、こちや越え行く先は箱根山。
十五、雲井の花をわけすてゝ、小田原の、大磯小磯を打過ぎて、こちや平塚女郎衆の御手枕。
十六、花の藤沢過ぎかねて、神の露、ちゞに砕いて戸塚より、こちや保土ヶ谷までの物思ひ。
十七、思ふ心の神奈川や、川崎を、通れば、やがて六郷川、こちや大森小幡で鈴ヶ森。
十八、酔ひも鮫洲に品川の、女郎衆に、心引かれて旅の人、こちや憂を忘れてお江戸入り。
[#ここで字下げ終わり]
 小田原あたりからうたの足どりが次第に東へ迫るにつれて文句も冴えて来る、といつても、この「下り」のうたは、「上り」に劣る。あるひは本来「上り」のうたがあつて、あとから「下り」を作り添へたものかもしれない。「お江戸日本橋」とは人がいつても、「花の都は……」では何のことかわからないのは、ひつきやうその作品が消えるか残るかの正直な出来栄えの違ひで、「いろはにほへと」の数へうたは無くならないが、「とりなくこゑす」は殆んどもうたれも口にしない。
 それにしても「上り」うたの中の、第六節「登る箱根のお関所で……」の件りなどは、情景躍動見るべし、浮世絵にもこの活画面は好個の題材なるに拘らずちよつと見かけない。道中うた作者の勝である。


     四、堀端

 徳川氏は覇業を達成すると、慶長八年に江戸の大土木を起し、日本橋もこの時その名と実の出来た歴史となつてゐるが、翌年(西暦一六〇四年)この橋を里程の基本として三十六町一里の塚を四方へ作り、日本橋からの東西南北を東海道、中仙道、その他甲州街道、奥州街道、下総街道……とした。以来旅立ちは七ツにしても八ツにしても「お江戸日本橋」から立つのが定となつた。
 徳川氏が、覇を成すや、土木を盛んにして江戸を中心に四通八達の道路を修正したのは、ローマが西欧大陸を定めるとまづ地域全体に渉つて道路を通したのと似てゐる。
 東西実用主義の双へきと見て然るべきものだらう。家康は江戸城の堀を相するに当つて、その西に面する方角には堅固な石垣を築き上げることをしたが、東面は土留《どど》めの山なりのまゝ、格別に石垣で堅めなかつた。
 東に面する方角から攻手のかゝらう理由は無い。あるひはこの方角に防備の理由はないとする心だつたといふ。
 それはとにかくとして、桜田門から半蔵門あたりへかけて曲折する堀にのぞむ城に、石垣のない、青草の柔かなスロープだけを見せた景観は、先にフランスのクローデル大使が、世界第一等の眺めの一つと推賞したと聞くが、誰しも同感であらう。
 木下杢太郎(太田博士)も、世界中方々廻つて見て、さて、やはり一番なじみの良いのは、この堀端だと、参謀本部の前のところで、青い水を見下ろしながら、ぼくに話した。――「堀」はまづ焼けなかつたが、参謀本部、すなはち、戦争最中の情報局は、跡形もなく亡滅して了つた。
 この建物はなかなか面白い――建築として第一に面白く、第二には、その数々の歴史から見て面白い――東京有数の記念物だつたが……これについては項を改めて書くことにしよう。
「お江戸日本橋七ツ立」を持つて廻るけれども、七ツの午前四時にあすこを立つたならば、さぞ足許の暗いことだつたらう。一体東京も、昔は夜ともなれば、相当暗かつたものらしい。江戸に至つては、さらに暗かつたらう。御府内の「暗さ」がうなづけなければ、辻斬りは、わからないやうである。明治も相当深くなるまで、依然として、夜は黒々としたものだつたらしい。小林清親の弟子井上安治の木版画を見ても、沢山ある秀れた安治(号探景)の東京名所絵の中で、優作の一つと考へられる、駿河町の、今の三越の角のところを写した夜景など、――さしづめ我々には、いま防空警報が出たばかりといつた景色に見える。
 月光をこの絵から取り去つたならば、たちまち真のヤミ夜である。
 かういふ東京の漆黒は、幸か不幸か、われわれ年輩のものは、初めてこんどの事件で体験した。
 高山樗牛が「月夜の美感について」論文を書いたのは、明治卅二年であつたが、少くも明治もそのころほひは、遊士樗牛をして、東京にゐてさへ、夜空を仰いで「月夜の美感」について考へさせた程、身辺は暗かつたものらしい。
 これが大正、昭和になると、東京では殆んど「月」は、あるひは月夜は――その[#「その」に傍点]美感を関知出来ないまで、殆んど至るところ、明々とした、夜の都となつた。


     五、明暗

 東京の町は昔暗かつたやうである。明治も深くなつて、末年に近づいても、その暗さは、ひところの大正、昭和の明るさになれつくしたわれわれからは、想像もつかない程のものがあつたらしい。
 電燈会社が成立つて、一般に電燈を点するやうになつた年をこの明るさ――白熱燈――の紀元とすれば、それは明治二十年のことなので、私などの生活は、その勘定からゆけば(私、明治廿六年生)生れおちると「電燈の光」の中に包まれたやうだ。しかし実際上は、私の少年時代は、寝室など行燈だつたし、――大正の人ともなれば行燈生活は全然知らないであらう――家の照明はガスを主として、これを石油ランプで補つてゐた。
 ガスといつても、点火すると火口からパツと直かに三角形の火を吹き出す、原始的なもので、それでもぼくの家などは、夜の「明るさ」を要求した商売屋(牛肉店)だつたので、精々明るくしてあつたのだらう。補助ランプのために男が特に一人、これにかゝりきりでゐた。ぼくも普通より「明るさ」になれてゐたやうである。
 ――しかし、夜の光は、今から思へば乏しかつたものらしい。
 ぼくは昭和三年に「パンの会」の油絵を描いたが、パンの会は明治四十年代早々に催された文人画家交歓の会合で、木下杢太郎氏あたりが主唱となり、メムバーは相当広範囲に渉つて、谷崎さんも出席したし、永井荷風さんあたりも顔を見せたやうだ。ぼくは――ぼくの年齢として――身親しくはこの会合を知らない。ぼくとは四つ違ひの兄貴が当時文学青年としてこれに出席したところから、幾分空気を親しく見聞してゐた間接の関係である。
 萱野二十一(郡虎彦氏)あたりが、二十一の名の通り、出席の最年少級だつたらう。小網町の川岸の西洋料理店などを会場に選んで、長夜の会合を開いた。
 これにさきだち、ガスには(その歴史の示すやうに明治卅年から卅五年までのところで)例の青白いマントルが一般となつてゐたから――ぼくの家などもさうだつた――パンの会も、照明は会場に数個燈つてゐたといふガスマントルの光を主力として、これに装飾として、ほほづき提燈の綱を天井から下つたガスの管から管へと張り渡し、燈入りの提燈をいくつかぶら下げた。(杢太郎氏の話)
 まづこれで会場は相当明るかるべきはずである。ぼくはその見当で、その情景を想像しながら絵に描いたが――なんとこの時、この絵を描いた(昭和三年状態の)ぼくの仕事場の夜業の電気の燭光が、昼光燭といふ球の、三燈合はせて六百燭光だつた。画面の近くへ電球を近寄せて見れば、条件の悪い昼間よりモノ[#「モノ」に傍点]はよくわかる程である――それで出来上つた僕の画面の明るさ加減は、どうしても「まだいけない、本当は君の絵よりもずつと会場は暗かつた」と杢太郎氏にいはれて、「想像」の見当もつきかねた。絵はこれ以上、暗くしてしまつては、カンジが出しにくいに拘らず、なんでも、パンの会場では、誤つてテーブルの下にフォークを落したのに、すぐテーブルの下をのぞいてみても、真暗で――あの光るものが――何処へ飛んだか、見当がつかなかつた程だといふ。


     六、ガス燈

 近ごろでは特に停電用といふのでアセチレンガスのあかり(名づけてカーバイト・ランプ)を町で売つてゐるが、これはその独得な臭気もろとも昔は往来で縁日商人の使ふものときまつてゐた。これを室内照明に使ふのは、アセチレンガスが昇格したのでなければ、使ふ人間が下落したのである。多分後者だらう。
 近代的な強い光の照明道具の中では、ガスの燈火が一番最初に出来たものだが、東京ガス会社の成立が明治十八年とある。会社が出来て初めて一般にガスを引けることになつた。
 これより前に弧光燈といふのがあつて、これは白熱燈にならない前の電燈、いはゆるアーク燈である。その二千燭光のものを銀座の大倉組の前に点火したことは(明治十五年)――わざわざこれを見に見物人が出て……もちろん、見物人は遠近挙つて毎夜銀座に雲集し、これは当時の三枚続きにも残るやうに、町の事件の一つだつた。
 ガス燈の光りぞ今は頼みなる雲かくれにし夜半の月かな――。
 ――その見物人の一人は、わざわざこの「二千燭光」の下で地面に針を落して見て、それをちやんと拾ふことが出来た、と、なかなかしやれたルポルタージュを示す始末だつた。
 ――それにつけて思ひ起すのは、わりに近年のこと、東海道を超特急の「ツバメ」が初めて一般の客を乗せて走つた時に、新聞の「鉄箒」といつたやうな投書欄に、この感謝礼讃の試乗記が出て、これに「私は食堂車の卓の上でわざとマージャンをつもつて見たが、パイは倒れなかつた」とあつたのを読んだことがあつた。いつも事にふれて人は同じやうなことをするものである――
「弧光燈」の名が巧まずして明治初年代の、なんぞといふと画《かく》の多い「字」が幅を利かせた世態を思はせて、面白いやうに、別に「現華燈」といふ文字も残つてゐる。しかしこれはガス燈一般のことをいつたものらしいとの石井研堂氏の考証であるが、一体この「ガス燈」といふこのガス[#「ガス」に傍点]が、せんさくして見れば問題で、文献で拾へば明治も五、六年の若いころから、すでに「ガス燈」の文字は散見する。「いづれも真のガス燈に非ず、石油燈なるべく、当時は街燈のことを、概してガス燈と称せしなり。」(研堂氏)――これが正しい解説である。
[#ガス燈の図(fig47728_01.png)入る]
 一ころの町の夕ぐれには、きやたつを肩にかついで、いはゆる点燈夫が、街々の「ガス燈」に火を入れて歩いたものだつた。――細かく云へば、これは或る期間は石油のガス燈だつたし、後には文字通り瓦斯のガス燈を扱つたものだつたが――馬車の御者は、その小弁慶のはつぴ装束をうたはれて、路上のイキとされて、伝はる。点燈夫のさつさと町から町を日暮れに飛んだ姿も、同じやうに当世のイキだつた。
 当時は天覧演劇であるとか、あるひは貴顕の邸へ陛下の御臨幸ある場合などは、ガスの大気嚢であるとか発電機を特にそこへ持運んで、照明の用に供へたといふ。明治陛下が有栖川宮殿下の邸から、その時使つてまだ点《とも》しきらなかつたガスの大気嚢をお土産にお持帰りになつたといふ記録もある程である。
 そんな風に、この土地の「夜」は年々明るくなつたとはいつても、まだまだ明治時代は総じて暗かつた。先之、ランプは幕末の輸入になり、文久三年版の「横浜奇談」に、「異人館……夜分に至れば、燈台にギヤマンの覆をかくれば、その明るきこと毛筋をも見あやまつことなし。いづれも屋敷の門の上にギヤマンにて製造なしたる行燈の如きものあり」とあつて、(今の言葉からいへば)たかゞランプ一つの明るさにも、こんなに驚いた時がある。物の比較観念は妙なものである。
[#ランプの図(fig47728_02.png)入る]


     七、モノの値

 モノの比較観念は比較対照の基準がぐらつくと「観念」そのものを一応五里霧中のものにしてしまふことは、現在の「物価」でわかる。今この原稿を書留速達にしようとするのに、郵税が十円なにがしかゝつて、往年の百倍であることは、郵便が国営であるかぎり、すべてモノの値が百倍になつたといふ「基準」になるものかどうか。明治廿八年版の雑誌太陽には「せめて米が両に五斗、原稿紙が一枚十円」になつたら、文壇に傑作が出るだらうといふことを誌してある。それはしかし「弥勒出現の時代の夢」だらうとしてゐるところは、「両に五斗」といひ「一枚十円」といふ、双方の数字を、考へ能ふ最大のプラスマイナスの開きに引離した、筆者の
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