くぎ付けにしてあるので、どうしてだらうときいて見ると、その空間を埋めてゐたカネの唐草模様をはづして、当局まづ率先してケンキンしたとのことだつた。
それがいはゆる上司の「指導方針」だつたやうだ。
便所が奇観だつた。同じ構へのWCの中に高等官用と普通用のと、標札を下げてはつきりした区別があつて、ぼくが普通用の方で用を達してゐると、隣りの高等官用へツカツカとはひつて悠然と放水する役人があつた。――どういふ色の小便の出る人だらうかとをかしく思はれた。
二十二、江戸聞書き(上)
何に依らずもの[#「もの」に傍点]ゝ名にせんさくすれば、必ずゆかりの深い根のあることは、「江戸」の名が、「入江のあるところ」といふ義に基くといふのもその一つで、この語義を考へ、土地の地形をさぐると、歴史の根幹にぶつかることは、周知の通りである。
名物浅草のりの次第や観音堂の由来の古譚をくり返すまでもない。
そしてこの土地には「江戸氏」なる豪族があつた。これは今からかへりみれば、江戸氏なる豪族あつたがために「江戸」の名があつたと逆説してもよい程の、この「土地」とこの「人」は深い因果関係のものだつたらしく、なほ江戸氏の他にこの土地には、古く葛西氏(東)あり、豊島氏(北)あり、今にその名こそ止めないが「吉良氏」などの古豪もあつて、いはゞ「督軍」であらう。これが何れも深く蟠居して、夜毎の月の「草より出でて草に入る」平原を古くから馳駆し開拓してゐたことは、古い歴史が訓へるところである。そして大ざつぱにいへば、なかんづく江戸氏が、草原の中央部分に覇を成してゐた。――江戸太郎重長は八ヶ国の大福長者といはれた。
江戸氏が「草原の中央部分に覇を成してゐた」と大ざつぱなことをいふのも、実は厳密に見れば、当時果して江戸氏の勢力範囲が正確に[#「正確に」に傍点]「草原」の中心だつたか、あるひはかたよつてゐたか、これは解りにくい。とに角江戸氏の古い居住が後の江戸本丸のあたりだつたらうと推定されるところから、その後の人間、われわれは、帰納的に推して、この豪族をこの土地の中央部分にゐたものだらうと考へるわけである。徳川時代から明治へかけての江戸・東京の市邑ともあらう区域は、思ふにそれが古くは江戸氏が占めた範囲であつたらう。江戸氏は徳川氏が江戸を居城としてからはこれをはゞかつて、改姓して喜多見氏と称した。
東京は後に市区を拡張して大東京となつたが、その時の膨脹した姿こそ、その昔この土地に東西南北にかけて葛西、豊島、吉良、江戸等々の諸豪が「草」の中に蟠居したその草全体を、初めて一括して一つの名――東京――の下に統率した場合に当つた。それから見ると、徳川時代の「江戸」はなほ「草」の一部分だつた。
その昔江戸氏のこの地における存在が、どれ程のひゞきだつたらうといふことは、頼朝挙兵(西一一八〇年)の場合の史実に見て明かであるが、新興の頼朝勢は、江戸氏にして若し招きに応じなければ、計つてこれを殺す外はないと一か八かでかゝつた。江戸氏もさるもの、素直に招きに応じた。といふのは、却つて新興勢の手の届かぬ不敗地に籠つて己を固めた具合で、頼朝は江戸氏に命じて、これを武蔵国全般の司とせざるを得なかつたのである。
この江戸氏の古跡は今でいふ「東京丸の内」の中にあつたに違ひなからうといふけれども、全然いん滅してしまつてゐる。
それは、この地へ入城早々の徳川氏として、それこれを顧みるにいとまなく、地を掘り、石を起して、十中十まで築城修理に急だつた。新「江戸」を成立たしめるに全力を用ゐて、旧「江戸」の歴史が地下に没してしまふことには構つてゐられなかつた。
二十三、江戸聞書き(下)
江戸城修築も本腰にこれにかゝつたのは文禄元年(西一五九二年)の三月からだといふことである。本腰にかゝるや、業を昼夜兼行に急いで、本多佐渡守の如き明け七ツに「御普請所御出候ツルママ諸大名衆不[#レ]残提灯御タテサセ丁場々々ヘ御出被[#レ]成候」といふ、盛観のことだつた。
家康は慶長八年に征夷大将軍となり(西一六〇三年)、江戸は天下の覇都となつた。天正十八年入国より数へて十四年目であつた。
そして「お江戸日本橋」中心の諸計を立てたのである。
武蔵野、即、その上の江戸の土地を呼んで、月が草より出でて草に入るとなしたのは、古くから常識化されてゐるけれども、しかし狐狸虫類だけの住家が忽然として都邑となつたものではなく、「人」は相当古くからこの土地に生活したもので、現に江戸(東京)には、これに随伴する芸術文化こそ少なけれ、縁起の古い神社仏閣はなかなか多く、家康入国の頃すでに仏寺には日蓮宗五寺、浄土宗三寺、真言二寺、天台一寺、禅寺五寺、計十六寺が数へられたといふし、神社には、芝神明、神田明神、平河天神、湯島天神、山王、烏森稲荷、築土八幡、角筈の社、五条天神……等があつたといふ。寺社のある[#「ある」に傍点]といふことは、それだけ人の栄えたことを意味するものである。
源頼朝が鶴岡八幡の社殿を造営した時、これに堪ふる腕の工匠が鎌倉には見当らなかつたところから、特に宮大工を江戸の浅草から呼寄せて造営に当らせたといふ史実の残つてゐるのは、当時江戸に、然る可き「文化」の備はつた実証と見ることが出来る筈である。
――とはいへ、到底「繁華」といへるものではない。只この土地に住み付いた人文の歴史は浅からず近からざる、その意味で徒らに狐狸の住家ではなかつたといふわけの(家康入国の当時は、縦十二町、横三、四町の市街があつたといふ)、わびしいことは、わびしい土地柄だつた。水戸から江戸に移り住んだ先住の佐久良東雄がいつたといふ「身は都に住めども狐狸を友として荒野に坐するが如し」。所詮これは、当時の実感だつたらう。
時は飛ぶが丸の内に草蓬々として「三菱ヶ原」のあつたのは、久しく明治の景物画だつたが、やがて大正年度にかけて、三菱ヶ原がすつかりコンクリートで埋まつた時に、――さしもの武蔵野も、その最後の一草まで、こゝで遂に新時代の姿に衣更へを完了したといふことが出来る。
三菱ヶ原の大規模な「衣更へ」を赤煉瓦のコンドル博士が創つたことは、前にいつた通りである。
そもそも筆者あたりの年のものが親しんだ、丸の内興隆史の第一ページは、宮城前の「草」だつたもので、この「草」を時の政府に用立金をして払下げを受けた岩崎弥太郎氏が、この「買物」について側近に放言したといふ、「なあに当分あのまゝにして、トラでも飼へばいゝさ……」の、その荒涼とした原ッパだつた。われわれ子供のころには、三菱ヶ原といへば、もちろん日が暮れてからは行けないところで、夏の日中などは、東京一の、虫のよく捕れるところだつた。
家康は榊原康政を惣奉行として荒蕪の土地に大土木を構へることゝしたが、こゝで「江戸もの」からいへば、そのなじみの土地々々へ、徳川直参の人々の根を生やして、根を生やすや、またたちまちその土地の名も実も身につけてしまふ血液移動が行はれたことになり、榊原康政は池ノ端向ヶ丘に住み、井伊は和田倉門、酒井は大手土橋口、城内西北に内藤金右衛門、大野清兵衛など大番頭衆として、これが番町に住む。御鷹匠は隼町に住む。矢は悪魔を払ふ良材であるといふので、城の鬼門に当る本郷台に御弓組の与力同心を住まはせて弓町が出来る……
一方、家康と一緒にこの土地へ「進駐」して来た町人達は、それぞれ屋号のれん[#「のれん」に傍点]を掲げて、相模屋、伊勢屋等々を号し、後々までも、江戸市中の名物は、軽口に「伊勢屋、いなりに、いんのくそ」といはれた。
秀吉の大業が成就を見た頃ほひ、家康の国代へ――栄転――は何れにせよ必至と見て、旗本の連中は、居城は多分小田原だらうと取沙汰するものが多かつた。中には、鎌倉だらうと推するものもあつた、けれども、一人として「江戸」とは考へるものがなかつたのに、俗史のいふ、秀吉と家康とがいはゆる関東の連れ小便をしながら、小田原城を見下ろす山の上の談笑で、江戸移駐を秀吉がすゝめ、家康が受けたといふ。とに角この「移駐」のことが電撃的決定を見るといふと、家康は又非常に敏速に引移りを断行して、秀吉を驚かせたといふことである。
歴史にはこれについての見方がいろいろあるやうであるが、家康を東へ封じたのは、秀吉の彼に対する敬遠策であるともいひ、その反対に、疎隔敬遠と見えて、その実は、古豪北条氏の旧土を占めることこそ、家康にとつては、最も望むところであつたとする。されば下世話にいふ「御意の変らぬうち」にと、徳川氏の東移は疾風迅雷的にとり行はれたといふのである。
天正十八年(西暦一五九〇年)の七月六日に、小田原城攻略成り、その十三日に家康の関東移封が発表されて、その旗本家人の衆をも事の意外に驚かしめ、しかもそれから半月後の八月朔日、八朔には、家康は早くも新駐の土地に乗り入れた。
底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2008年12月11日作成
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