王+干」、第3水準1−87−83]洞に個展を開いた、その会場だつたことをおぼえてゐます。その時そこの壁に、日本で初めて見る梅原良三郎の小さな首の油絵と、高村光太郎作の、男の外套をひつかけた女の半身像とがかゝつてゐたことを、これもはつきり記憶してゐます。
 岸田はその琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]洞の個展へ正宗得三郎氏が来て、しきりに、油絵の売れる売れないについて話して行つたとか。「ぼくはそれでそれまで一度も考へたことの無かつた売れる売れないを考へて、神経がいぢけて、仕事に障つて弱つた」とぼくに話しました。岸田はその頃毎日一枚は必ず仕事してゐました。ぼくも毎日何かしらやつてゐましたが、間もなくフューザン会の成る前で、ぼくは「いろは」として最後の采女町に住み、こゝへはその頃洋画をやつてゐた美校の広島新太郎君なども二三度遊びに来ました。ぼくは京橋へ移つてから極く近くなつた銀座の岸田と毎日欠かさず行つたり来たりすると同時に、美校の方の、――その年卒業期だつた――万鉄五郎、平井為成、山下鉄之輔あたりと交友してゐました。このグループは葵橋でぼくと同窓だつた瓜生養次郎が中間に立つて結んだものです。しかし岸田達(川田・清宮彬・岡本帰一・鈴木金平)と美校の連中とはつひに気が合ひませんでした。
 一方に又、松村巽・川村信雄・三並花弟・川上凉花等の、当時芝のユニテリアン教会で旗上展をやつた雑草会の連中がゐます。
 大正元年秋結成のフューザン会は、かういふ各方面のグループが自然と大同団結したものです。
 そしてぼくは、このフューザン会第一回展に岸田組からと、同時に万達の美校組からと、交叉した友交関係で、加盟することになり、それで作品を初めてデビューしたのです。
 もしぼくがあの時美校へ受かつてゐたら? 更にもしも、ぼくが当時先立つて岡田先生のところに厄介になつてゐたとすれば? ぼくはアカデミーと角の多い関係となつてゐた筈です。
 岡田さんはその後未だになんとなく「先生」といつた感じのするぼくの記憶の人となつてゐます。
 ぼくはフューザン会の間は家で学資を出して貰ふまゝ、「いろは」にゐましたが、その頃日増しに家運の傾くのを見て、お袋に負担をかけることが耐え難くなり、丁度そこへ芸術雑誌の「現代の洋画」が創刊されたのを見て、主管の北山清太郎に手紙を出して、社員に使つてくれと申入れま
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