坂溜池の旧白馬会研究所へ通ふことにしました。歌や芝居や道楽はふつつり止めました。研究所ではその頃、岡本帰一と三井両氏が幹事で、桜井知足君が牛耳つてゐました。石膏には石橋武助君や、寺内万治郎、耳野卯三郎君などもゐたと思ひます。メートル(黒田清輝先生)には在学中に前後只一回だけ、石膏を見てもらつたことがあります。
 ぼくは研究所へ美校入学の為めの受験準備に通つた筈です。しかしぼくは幸か不幸か――後に万鉄五郎のいへる「早熟児木村某」甚だしく先走りでしたから、ぼくの帳場格子の中の「勉強」はその頃、小説類から変つて、カミユ・モークレールの「仏国印象派論」やギュスタフ・力ーンの「ロダン評伝」になつてゐます。これが却つて、相持ちで、さしては見たが時雨がさ、気はあせれども足はふらふら、と歌の文句にある通り、眼中の梁木《うつばり》となり、ろくに何も出来ないくせに何だかあたりの空気が気に入りません。それで一人で隅つこで「調子の研究」の真似事などをやつてゐました。
 あとで岸田劉生がいふに、あの時分の君は、なんておとなしい奴が研究所にゐるもんだ、と思つて、それで好意を持つたものだヨ、といふことでした。(岸田は人体室のチヤキチヤキでした。)
 またたつた一度受けた黒田さんのぼくの石膏デッサンの批評は、「君は調子はいゝが、形ちが悪いね。色盲でなしに形盲だね」といふのでした。
 ぼくは研究所で、右の通り足はふらふらの頭大漢でしたから、一番気に入らなかつたのは図書室の荒廃です。印象派についての参考書が一つもなく、壁にいつも横つちよになつてカラッチの天使などのかゝつてゐるのが何となくイヤでした。そんなわけでモークレールの受売りに早くもアカデミー嫌ひでしたが、そのくせ美校は、家の手前、二度受験しました。そして二度共首尾よく落第しました。
 一度の時は鋳金から洋画へ変つた小糸源太郎君と同期、二度目には、清水良雄君と同期だつたと思ひます。石橋武助などは美校へ受かつたのでその後葵橋では逢ひません。そして二度目の落第の時には、既にぼくはその頃研究所先輩側の岸田劉生と相識り、意気相投じてゐましたから、岸田はぼくがまた美校を落ちたと聞くと、家の方はそれでいけなくなるかも知れないが将来の為めにはあすこへ行かない方が本当だ、と手紙に書いてくれました。何でも二人でそんな話をし合つたのは、岸田が初めて小川町の琅※[#「
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング