どゝいふ、かういふ仲間内で、ゴシゴシ鉛筆画をかいてその上にゼラチンを塗つて油絵だといつて喜ぶ遊戯などをしました。店に客が無いと、ぞろぞろ小高い三階へおし上つて、これは当時市内各区の「いろは」牛肉店独得に、五色の窓ガラスで家の見附きが全部飾つてあります。その五色のまゝ、赤や紫の四角な透明の形が畳へおちる真明るい中で喜遊します。一度は高い三階のてつぺんから下の地びたへ、宿無し猫を力一杯放つて、それが地びたでどうなつたのか、真下に客待ちしてゐた人力の車夫に、家へ手ひどく苦情をつけられたことがある。
 芸妓屋のコドモたちは、尤も家にぼくは妹がゐましたから、これへやつて来るわけですが、おはつちやんであるとかおせんちやんであるとか、その使ひ走りの下地つ子達が、ぽつくりを履いてぞろぞろやつて来るといふと、ぼくはこのみんなを集めて、人形芝居をやつて見せたものです。出鱈目に番町皿屋敷であるとか本所のおいてけ堀といつたやうな、いゝかげんの狂言をやります。その人形は皆から集めるので、これをいつも苦心して、尻から棒を通して首が動くやうにしたり、衣裳を作つたり用意しておきます。
 よくないのはこの仲間で時々お医者ごつこをしたことですが、ぼくが先生で、一人々々をきやつきやといひながら、シンサツするのです。これは明らかに鴎外先生のヰタ・セクスアリスにでて来る世界と同じことでした。
 おせんちやんなどは――おないどしでしたが――ぼくが十八になつて吉川町の家から浅草東仲町の店へ移動した頃には、シンサツどころではない、土地の立派なもの[#「もの」に傍点]になつて、よく遠眼にお湯の帰りなどの襟足をくつきりと抜いた、左右につげのびん出しをぴんと張つた颯爽とした姐さん振りを、見かけたものでした。
 ぼくは二十一で生家を出た当座、小遣取りに、そんなことを小説にかいて万朝報の懸賞に当つたことがありましたが、小山内さんが見て、あれは荘八君ぢやないかと思つたよといひました。小山内さんなどといふ人は、あゝいつた懸賞小説なども目を通して居られたものと見えます。
 ぼくの家の横手がずつと元柳町「芸妓じんみち」です。ぼくの中の間の窓は赤い煉瓦作りで、この通りに向つて開いてゐる。吉田白嶺さんの奥さんが、若い頃に、よくお稽古の帰りなどにその「木村さんの窓を覗きましたヨ」といふ話でした。
 窓の下は相当幅の広いドブ板になつてゐて
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