るといふことは珍らしい[#「珍らしい」に傍点]例なることを段々と再認識します。咄哉州はあにさん[#「あにさん」に傍点]の金チヤンと共に小さいころから器用で、よく浅草公園の花屋敷にあつたダークのあやつりの水族館をボール箱の中に作つて遊びました。ぼくも幼少の頃から絵ずきで、友達との遊びといへば何彼につけ絵に関係のあることばかりでした。極く小さい時分に、毎日のやうに茄子や胡瓜、かぼちやなどが、黒門のところで鎧兜で戦ふ絵を描いたのをおぼえてゐますが、これは恐らく芳藤のおもちや絵、絵草紙から学んだものだつたらうと後に回想されます。
 その絵を僕にいつも手をとつて教へたのが、鈴木金太郎といふ叔父でしたが、これがすでにその頃都下に稀の「江戸児」といふべく、膝栗毛の喜多八又は落語に出る与太郎出だちの、イキな人で、又、ケムのやうな人でした。近年この叔父は七十の天寿を完うして私方で亡くなりましたが、晩年はボケて、どう聞いても、彼之れ五十年前に僕に教へた八百屋もの戦争の絵は、忘れてゐて、かいてくれませんでした。幼少の頃からぼくは文弱に流れてゐたやうです。両国ですから、回向院の角力場に程近く、これで弱つたのは、ぼくの名が木村荘某とあるところへ橋向うの行司衆が多く木村庄某なので、場所時分には郵便のとりちがへが盛んだつたことです。――名のことではもう一つ、ぼくの生家にかけて、ぼくは牛屋の荘ちやんといふわけで、牛荘、ニウチヤンと呼ばれて、いゝ心持のしなかつた記憶があります。畢竟日清戦争の名残りがまだぼくの少年時代には消えなかつた一つの兆候でせう。
 子供の頃から角力に近いくせに前後に一度もぼくは立ち会つて人と角力をとつたことがありません。たつた一度、フューザン会の時に、会場の読売新聞社の三階で、イヤだといふのに角狂の岸田劉生に挑まれて、かゝへ込まれ、忽ちヤツといふ程投げられた経験があるだけです。
 少年時代もそんなわけで、殆んどいつも中の間といふ「いろは」第八支店の奥のうす暗い室に引つ込んだなり、近所の芸妓屋のコを呼んで来て「おんどらどらどら、どらねこさん」といつたやうな遊びをするか、または、田中咄哉州――当時「咄哉州」なんとはいひません。兼次郎のカンチヤン――この連中同士の、いまの樫田喜惣治、即ち鼓の望月の二番息子の久チヤンこと阿部久であるとか、あるひは横山町の根津源、元柳町の樋屋の長ツペエな
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