ことは前にいつた。色墨も使つてゐない――墨はぼくの知る限り、却つてぼくや中川一政などが小杉放庵老の東道で硯墨に凝り始めた頃よりも岸田は遅く入つて、たしか硯の善品には出逢はぬ間に逝つて了つたと思ふ。墨は色絵人物の刻されてゐる丸い明墨を手に入れてから匂ひが高くなつたが、存外これは京都から鎌倉へ移つた、最晩年のことだつたかも知れない。(その後この墨の行方は知らないが、石井鶴三が割合に近く、これと同質の明墨を珍しく手に入れた)――後記。
余事ながら、近頃岸田劉生の偽物の多いには、弱つたものである。ぼくなんかはどうかすると此節、月に十幅は欠かさず岸田を見るだらう。ところが十の中の七迄は偽である――殊に油絵に至つては。油絵こそはさうさうフラフラした真品があらう筈もないのだから。
――最も滑稽なのはまさか偽作者がかう迄ぼくのところへ一手に岸田が集まらうとも思はなかつたので、それでしたことだらうが、何れを見ても必ず署名が 1916 April R・Kishida だ。枯草の絵でも雪降りの絵でも、されば一九一六年四月署名の岸田の油絵は、先づ当分眉唾と考へていゝやうである。
又日本画は何処で誰に製
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