れた心を持つた男であつた。
宋画の寒山拾得を見れば彼は寒山拾得を描いた。ぼくが版の極く悪い十竹斎画譜を求めて来たことがあつたが、一眼それを見るや、彼はぼくに懇望し、殆んど強要せんまでにしてその九冊本を急ぎ鵠沼へ持返り、やがて彼の画室へ行つて見ると、沢山に半折の十竹斎風なる試作(日本画)が描けてゐたことがある。
そしてモティフの角度こそそれは十竹斎風なれ、その角度を通して表現された美術は、所詮「岸田劉生風」のもので、何よりも新鮮で、求道に競ひ立ち、筆端に愛情と発見のこもる、面白い生きた仕事振りだつた。
同じやうにして、彼は明画風の籠中果実を描いたし、銭舜挙風の花を描いたし、元画風の瓜を描いたし……美術を追求し追求して飽くを知らなかつた、心豊かな男である。常に岸田劉生といふ画人は。
彼は一度笑談半分に豪語してぼくにいつたことがある。「オレは日本画を描いては皆売つちまつたよ。稽古の絵も何も彼も日本画は残らず売つちまつた」と。恐らく事実その通りだつたらうし、また「稽古の日本画」と雖も彼のものは、とうに美術の風を備へてゐたゞらう。
何故ならば岸田が日本画式を手がけたのが前記の如く既に鵠
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング