い美感の方向へと進路を転じたので、やがて交代に現れた美感の方法が、「ハイカラ」と呼ばれる新時代のものだった順序である。

「ハイカラ」は明治の後年期十年間ばかりのところに指摘される、新規な「美男の坩堝」、その製造方法であるが、およそ「明治」のことと云えば何でも「明治天皇」にもとづかないものはないように、「ハイカラ」といえども、もし明治天皇が明治五年に洋装なさらなかったならば、日本になかったものだろう。御一新にあたって断然陛下が散髪なさり洋装なさったことは、「日本」全体がそこから変貌して髪を切り・服を改めたことだったので、その天皇の御意見、「夫唱婦随」もあったことだろう。それよりも更に能動的・直接には、侍従の島団右衛門あたりの御すすめによって、率先して[#「率先して」に傍点]、おすべらかしお美しかった皇后が、お馴れにならないローブ・デコルテの洋装に身なりをお改めなすったのは、――辱けなや、開国文明のためである。
 明治天皇は十八歳のお年(明治二年)までに、東海道を往復数度なさったが、その時のお姿が、白羽二重のお召物に、緋の袴を召されて、お馬だった。
 明治天皇のお馬の道中には、片脇に侍臣が付き添うて、馬上の陛下に紺蛇の目に銀の蒔絵をしたお傘をさしかけたということである。
 今から九十年前に陛下が江戸――この東京へ先ずおいでになった時には、そういう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈、伊藤等の頭上から一瞬にしてちょん髷がなくなり、つづいて日本中で切り下されたちょん髷の数々は、日に日に無数だったことだろう。横浜ではその頃から、「仏蘭西五十三番」にヂバンという商人があって、洋服、靴、帽子、手袋等、アチラの装身具一切をあきなったという。
 時は少し下るが、数奇者の――そしてモードに対して常にカンの鋭かった――音羽屋五代目菊五郎は、好んで横浜(ハマ)まで洋品の買いあさりに出かけ、或る時は長靴を求めて、意気揚々とそれを履いて「小屋」入りしたことがあったという。
 二十一歳におなりになると、それからは明治天皇は、公式服装の場合は一切、出るにも入るにも洋装となさった。千年の緋袴白袍は深々と蔵に埋められて、歴史の彼方に去ったのだ。

 ハイカラという言葉は、英語の h
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング