の逸足で、明治二十二年にはすでに、二十歳を少しの若さで夭折してゐる惜しむべき画人である。
 思ふに「十○年」――問題の十九年[#「十九年」に傍点]――をもずれて[#「ずれて」に傍点]、この版画は、明治二十年代へかけての発行ものではなかつたらうか。少くともギリギリ明治十九年、この家が、五色ガラスの装飾障子に改装されてから、それから安治の写した「真写」ではなかつたか。
 父は諸獣屠殺の事に手を染めたころ、その「化学教師」として、墺国人のシーバーなる人を雇つたと云ひ、その他欧米人に知り合ひを持ち、当然横浜・神戸あたりの海関貿易の方面とも遠くなかつたやうである。一体東京に於ける牛鳥肉店、「いろは」などよりも元祖の、銀座(れんが)の松田など、これが抑々その店頭装備を五色ガラスに色めかしたやうで、その元といへば、開港場(横浜)の外人相手のチヤブ屋から来てゐると考へられる節がある――ぼくはぼくの生家のガラス装飾を所詮これに基づくと考へてゐるものである。
 洋品洋物は当時東京は横浜を宗として、洋趣味も、そこから流れたことは、各方面の史実に明らかである。新時代の風の「チヤブ屋」風俗も、牛肉店などのモードも、旧東京(江戸)にその範を求めることは出来ない。云ふところのフラフ(旗印)などと共々、五色ガラスの店頭装飾も、当時洋風の先端を切つたハマ譲りである。
 氏の晩年であつたが、馬場孤蝶さんと逢つて話した時に、それは主として「一葉」及びその「時代」について馬場さんから話を聞く一席のことであつたが、馬場さんは一葉作「にごりえ」に言及しながら、当時一葉のゐた丸山福山町界隈の「にごりえ」風な家々には、その家の見附きの二階ガラスに[#「その家の見附きの二階ガラスに」に傍点]、五色ガラス[#「五色ガラス」に傍点]を点じてゐた――。
 と云ひながら、座のぼくを顧みて「さうさう、木村さんの家のいろはのやうにね」と話されたことがあつた。
「にごりえ」に関する文献といふか、表証について、これは小さからぬ逸事とぼくは以来考へてゐるものだが――所詮「にごりえ」の家々は娼家営業のものである。やがては「銘酒店」ともなり、いはゆる「曖昧屋」の、末は明治末の浅草千束町(十二階下)から後の※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東玉の井へと転化するモードの一齣だ。その先働として発した明治二十八年(
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング