たことは、これに依つて間違ひない。
 やがて後年に――これはぼくの年齢にして相当よく記憶にあることだから、明治三十年後のことであらう――
 上野山下の旧「がん鍋」を手に入れようとして、成らず(その理由はぼくは詳しくしない)、それで「浅草」にも「日本橋」にも「両国」にも大体市内の目ぼしい個所には店があるのに、上野[#「上野」に傍点]にだけは結局いろはの無かつたのは、そのためと、後々までも家人の一つ話となつてゐたことが耳にある。がん鍋はその家のありやう[#「ありやう」に傍点]はぼくの如き当時年少で詳知しないけれども、錦絵などでは見る家の、その名は幼少からよく聞いてゐた名代の店屋で、維新の彰義隊騒ぎに、籠城の士がはじめにこのがんなべの屋上から官軍を防戦したといふ話など喧伝される、古い家である。――間違ひでないとすれば年少ぼくの記憶では、そのがん鍋を手に入れかねたといふ時分から、そろそろ、いろはもその「全盛」を下らうとしたものではなかつたかと考へてゐる。父が急逝したのはぼくの十四歳の春であつた。
 明治十九年に「いろは」第八支店を父が経営したといふが、数へればそれはぼくなどの生れる八年前のことで、そしてその当時からすでにこの家は前通り二階に五色ガラスの装飾障子を持つてゐた[#「その当時からすでにこの家は前通り二階に五色ガラスの装飾障子を持つてゐた」に傍点]といふが、丁度図中に「明治十○年○月○日御届」とある、井上安治うつす版画に、この家の五色ガラスせる前面の様子を写したものがあるので、類推の手がかりとなる。
 思ふに父はこの家を手に入れると、早速、家全体の「五色ガラス」装備をしたことであつたらう。この家はいろはになる前は元綿屋であつたといふが、綿屋に五色ガラスの装飾障子は要らなかつたであらう。
 こゝに一つの疑問は、井上安治のこの版画を「御届出」でた明治十○年[#「明治十○年」に傍点]といふ、その○年の「数」であるが、十代とすればギリギリに勘定して丁度「十九年」の、ぼくの父がこの家を改装?した年限に当るとして、しかし元々果してこの「十○年」が正確な「十何々年」といふを現はす年数の指示だらうか、一つにはこの版画が「両国大平板」とあるので、図のいろはの裏手に当つた大平錦絵店からこれが発行されたことがわかり、大平がそのころそこに盛業してゐたことが示される。画者井上安治は小林清親門
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