を出たり入つたりして後仕舞《あとじまひ》をしている。右奥に見えてゐる階段に音がして四十四五の小役人風の男が降りて来る。それに続いて、疲れたお秋が降りて来る。少し酔つてゐる。
[#ここで字下げ終わり]
女将 あら、もうお帰りですか?
男 (少してれて)あゝもう大部おそいだらうね?
女将 (柱の時計を見上げ)十一時五十分キツカリですよ。
男 そいつは、ボヤボヤしてゐると、赤電車を捉へそくなつちまふ。ぢや、左様なら。(外へ出て行く)
女将 (お秋に)――あの?
お秋 えゝ、二階にいたゞいてあるわ。
女将 さう。では左様なら、又どうぞ――。あれ、どんな人なんだね?
お秋 さあ。どつかの役人か何かしてゐるんでしよ。私きらひ。しつつこくつて――。
女将 さうさねえ、年寄はみんなさうだよ。は、は、は。
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間。
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お秋 旦那は今夜は見えませんの?
女将 おやおや、年寄と言つたら直ぐそれだからねえ、秋ちやんには、かなはないよ。――しかしあの人が見て、くれなきや、此の内は立つて行かないんだからね。仕方が無いさ。――来てゐるのは宵の内から来てゐるんだよ。
お秋 あんな事を言つて。――ぢや、おかみさん、奥へ行つたらいゝわ。後じまひは私がしますから。
女将 さうかい、ぢや頼むわ。お前が本当にシヤンとしてゐてくれるから、どれだけ助かるか知れないよ。初子はあんなことになるし、沢子は臥つてゐるし、私やもうね――。お前の年《ねん》が明ける時にや、相当のことはするからね、私だつていつもイライラしてゐるから、恵ちやんにだつて、つい口ぎたない事を言つたりするけど、そりや――。
お秋 えゝ、えゝ。――私は、つとめる分をつとめるだけですわ。
女将 恵ちやんはまだ帰らないのかい?
お秋 えゝ。
女将 丁度いゝわね、では。お前に後じまひをして貰へば。――杉山さん、もう帰つたの?
お秋 まだ沢ちやんの部屋にゐます。
女将 どうしたんだね?
お秋 又、金でも貰ひに来たんでしよ。放つときやいゝわ。どうでも帰らないと言つたら、私が何とかしますから。
女将 ぢや頼むよ。あんないけない奴だし、――それに始終|匕首《あひくち》を持つてゐると言ふんぢや無いの。なんしろ昨日の今日だからね。又、しよびか[#「しよびか」に傍点]れたりしたんぢや始まらないからね。いゝね?
お秋 えゝ。
女将 ぢや、戸締りはいつもの様にね。頼んだよ。(奥へ立去る)
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お秋奥へ消える女将を見送り、床の上にベツと唾を吐く。
外への出口へ行き、道を覗き、誰も来ないのを見て、扉一枚だけを残して入口を締る。窓を閉す。
チヨツと立止つてから、売場へ行き、棚から酒瓶とコツプを取つて、注ぎ、飲む。
たもとの中に煙草を捜す。無いので、舌打をして、ストーヴの下の辺を捜して、客の吸差しの煙草を拾ひ火をつけて、ふかす。眠そうな遠い汽笛の音。お秋、椅子に掛け、テーブルに肘を突く。間。外でコトコト音がする。秋の弟が杖を突いて来る。
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お秋 あゝ、恵ちやん、今夜おそかつたね。
弟 姉さん、此処にゐたのかい、姉さん――(お秋に寄つて肩にさわる)此処にゐたのかい。(安心した様に微笑)
お秋 寒かつただらう?
弟 なあに、寒かあ無いよ。――今夜もまた締出しを食ふかと思つた。
お秋 お前、おなかは? いゝの?
弟 あゝ、空きやしない。お師匠さんとこで、おさつ[#「おさつ」に傍点]をよばれた。うまかつた。姉さんにも持つて来ようかと思つたんだが、そんな事出来ないもんだから。
お秋 私やいらないわ。どうだつたの今夜は?
弟 十人以上もんだ。お師匠さんが褒めてくれた。
お秋 そりやよかつたねえ。
弟 うまくなつたぜ。姉さん、うまくなつたぜ。肩はこつてゐないの? もんでやらうか? え? もんでやらうか?
お秋 いゝよ、私。こつちやゐないから。(涙をふく)
弟 この分でミツシリやつたら、あと、半年もやつたら、試験が受けられるんだとさ。もつとそれには、解剖をやらなきやならないんだと。――しかし俺、解剖だつてもう少しは知つてゐるんだぜ。ね、姉さん(肩を押えて)此処んとこの、この骨は、何と言ふんだか知つてゐるかい? 知らない、知らないだらう? これは肩胛骨つて言ふんだ、それから――
お秋 痛いよ、恵ちやん、そんなに掴むと痛いよ。
弟 あゝ、痛い位だらう。(笑ふ)初めは、こんなに力が入らなかつたんだ。――来年になれば、俺が働くよ。
お秋 さうなれば、姉さん、どんなに嬉しいか知れないよ。
弟 さうなれば――姉さんの事、手の先だつて外の奴に触らせやしないんだ。――今夜はもう店はしまふの?
お秋 あゝ、だから、恵ちやんも早く二階へ行つておやすみ。
弟 だつて、まだ誰かゐるんだらう。お客がゐるんだらう!
お秋 誰も居やあしないよ。
弟 嘘言つてら。(見物席を指して)ゐるんだらう。その辺にまだ誰かゐるんだらう。
お秋 (見物席を見て微笑)誰もゐやしないよ。
弟 さうかい。俺にはまだ居る様な気がするんだけど。――俺にはしよつちうそんな気がするんだよ。誰も彼もが、姉さんを掴まへさうな気がするんだ。姉さんにさわりさうな気がするんだ。姉さんを、さらつて行きさうな気がするんだ。――(見物席を指して)その辺に沢山、そんな男がゐる様な気がするんだ。
お秋 (再び見物席を見て微笑)何を言つてゐるんだよ。
弟 姉さんは、いろんな匂ひがするよ。恐ろしく沢山な匂ひがするよ。――いろんな匂ひがするよ。
お秋 馬鹿だねえ。そんな事言つてゐないで、早く寝たらいゝ。
弟 しかし、来年になつたら――畜生どもに――。さうなつたら姉さんは、あの人と一緒になる。
お秋 (二階をチラリと見て)なにがさ?
弟 白ばつくれたつて俺は知つてる。阪井さんはメツタにやつて来ない。しかし、姉さんは待つてゐるんだ。知つてゐるよ。――さうなつたら俺は、阪井さんを兄さんと言ふよ。兄さんと言ふよ。
お秋 (目の見えぬ弟を淋しさうにヂツと見て)阪井さんなら二階に来てるよ。
弟 なんだつて? 阪井さんが! どこにゐるの?
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この頃、便所に立つたらしい阪井が右手階段のあたりの便所口から、階段へ行かうとして出る。何と思つたかそこに立つたまゝお秋の方をヂツと見て立つてゐる。この幕の終るまでそこに立つてヂツと見てゐる。
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お秋 お前の部屋にゐるかも知れないよ。
弟 しかし今頃どうして来たんだ。組合の方がいそがしいんぢや無いのか。俺、今夜あの前を通つたぜ、大変な騒ぎだ。ワーツワーツつて、なんか喧嘩でもやつてゐるらしかつた。俺あすこに立ちどまつて、やれやれ、しつかりやつて、金を持つて、いろんな匂ひのする奴等をたゝきつぶしてやれと思つた。俺も目さへ開いてゐたら。――どうしたんだよ、阪井さん?
お秋 どうしたんだか、私や知らない。
弟 変ぢや無いか。――どうも変だな。――姉さん、浜の方は凄いぜ。見えはしないけど、今に浜はひつくり返るよ。
お秋 ――そんな事はもういゝから早く二階へおいで。もうお休み。
弟 寝るよ。あゝ寝るよ。姉さんは?
お秋 私や戸締りをしなきやならないから――。阪井さんがお前の所に寝るなら、少し蒲団を分けておやり。
弟 いゝとも、だけど変だなあ。あゝ寝るよ。姉さんも早くおやすみ。(階段の方へゴトゴト行く)姉さん、姉さんはあの人に惚れてゐるよ。そして、さうで無いふりをしてゐるんだ。俺知つてゐるんだ。(二階へ消える)
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お秋煙草を吸ふ。――吸ひ止めてヂツとなり、テーブルに顔を伏せ、急にガツクリして声を出さずに泣く。永い間。隅に立つた阪井がお秋を見詰めてゐる。時計が十二時を打つ。入口の扉が開いて、神経質らしい洋服の町田が少しキヨトキヨトしながら入つて来る。
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お秋 おや、あんた町田さんぢやなくつて!
町田 あ、お秋さん、今晩は――(四辺を見廻す)あの、つい来よう来ようと思つてゐながら――。
お秋 ――。
町田 あの時のお礼もロクロク言はずにゐたし、来なくちやいけないと思つちやゐたんだが、ね――。
お秋 それなら、もういゝのよ。お礼なんて、そんな、私は自分のしたいことをしただけなんだから、それに、あんた達、こんな所へ来ない方がいゝのよ。
町田 いや、さう言はれると――。どうも、いろいろ忙しいし、それで――。
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短い間。
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お秋 ――ぢや本当だつたのね?
町田 なにが?
お秋 いゝえ、――もうね、(二階を目で差して)日暮頃から、杉山が来てゐるのよ。
町田 えゝ、それぢや、それぢや――。
お秋 私は多分、又小使銭取りの嘘だらうと思つてゐたわ。どうしたの全体?
町田 本当なんだ。昨日夜だ、僕が働きに行つた留守に居なくなつたんだ。僕は、また、戸崎《とざき》の方にゐる親戚へでも行つたかと思つて。――そんな事が前に二三度あつたのでね。――そいで今日昼頃まで待つてゐたんだけど帰つて来ないんで、――きまりが悪かつたけど戸崎へ出かけて行つたところが、来てゐないと言ふんだらう。(間)――来てゐるんだらう?
お秋 それが、ゐないのよ。
町田 えゝ、ゐない? 来てゐない? そりや、大変だ。もしかすると、こいつあ、もしかすると――。
お秋 一体全体どうしたのよ?
町田 どうしたと言つて、お秋さん、僕はどうしていゝか解らないんだ。
お秋 もつとあんた、落着かなきや駄目よ。男のくせに何をワクワクするんです。――一体、初ちやん、どうしたつて言ふの?
町田 それが、初子は可哀さうなんだ。彼奴は考へて考へ詰めたあげくの事に相違無いんだ。
お秋 喧嘩でもしたの?
町田 馬鹿な、そんな事ぢや無いんだよ。――事が違ふんだ。――彼奴まだ此処に来てゐないとすると――秋ちやん、どうしたらいゝだらう。お願ひだから考へてくれないか。僕には何もかもわからなくなつた。どうも――。
お秋 だからさ、何がどうしたんだか、言つて見なきや解らないぢや無いの。
町田 あの杉山だよ、杉山がこんな事になさしてしまつたんだよ。杉山が金をゆすつたり、恐迫したりするもんだから、初子は僕んとこに居れなくなつたんだ。
お秋 だつて町田さん、そんな筈は無いぢや無いの? あの時、杉山さんは手切れまで取つてゐるんぢやないの?
町田 そんなもの何にもなりやしなかつたんだよ。――そりや一ヶ月ばかりは、僕等んとこへは寄りつかなかつたさ。――しかしそれからは三日にあげずやつて来るんだ。――居すわつて動かないんだ。――何と言つても、そのたんびに金をやれば、その時だけは帰るが、次の日になると又来るんだ――。
お秋 だつて、あんたんとこ、杉山さん、知らなかつた筈ぢやないの?
町田 あの男には、そんな事捜す位、何でも無いんだ。――僕達だつて、最初の家からもうこれで四度も越してゐるんだけど、それでも駄目だつた。――蛇の様な男だ。――初子は、そのたんびに、どうせ私は杉山から逃れられない運命だからつて、泣くんだ。――お秋さん、これを見て呉れ。(紙片《かみきれ》を出す)
お秋 ――。(黙つてそれを読む)
町田 僕はどうしたらいゝんだらう? ねえ。――僕は出来るかぎりの事はした。――初子と一緒に居れば学資は出せないと親父が言ふので、夜になると新聞社の発送係りに出た。二人で貧乏した。僕はあれを教育しようとまでした。――ね、お秋さん、僕の心がまだ足りなかつたんだらうか?
お秋 ――えゝ、足りなかつたのよ。
町田 え、さう思ふのかい? どうしてなんだ、どうしてなんだい?
お秋 ――さうだと思ふわ。――初ちやんは、私と同じ者だつたのよ。まあ、さうね、淫売だつたのよ。それをあんたが外へ連れ出したんだわ。
町田 それは知つてゐる、しかし、僕はかまはないんだ。僕は僕の妻にしようと思つたんだ。
お秋 そしてね、淫売を普通の女になす事は、普通の女を淫売になすことよりも、むづかしいのよ。――さうだわ、あんたの心が足りなかつたんだわ。―
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