疵だらけのお秋(四幕)
三好十郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)先《せん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)始終|匕首《あいくち》
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人間
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お秋(26[#「26」は縦中横])
その弟(16[#「16」は縦中横])
沢子(22[#「22」は縦中横])
秦(中年の仲仕)
阪井(片腕の仲仕)
初子(24[#「24」は縦中横])
町田(25[#「25」は縦中横])
杉山(36[#「36」は縦中横])
女将
客達
仲仕達
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場
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或る港の酒場
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(一)[#「(一)」は縦中横] 沢子の室
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六畳。それに続いて向かつて左の隅に三畳。おそい午後。まだ電燈がつかない。三畳の方は殆んど真暗である。六畳に沢子が寝てゐる。三畳の暗がりにお秋の弟が机に坐つて封筒張りをしてゐる。――紙の音がバサバサ聞える。間――
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沢子 (身じろぎをして、三畳の方へ襖越しに)恵ちやん。
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 恵ちやん。――恵ちやん。まだお仕事は済まないの?(弱々しく)そんなに、あんまり詰めてすると、また、眼が痛み出してよ。――ねえ。少し休んだらどう?
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 ――まだ姉さんは帰つて来ないの?
弟 ――(答無し。紙の音)
沢子 (返事をされない事には慣れてゐるらしく)――また秋ちやん、鑑札を取上げるとか何とか言つて、おどかされてゐるんだわ。――ほんとに、秋ちやんはいつも苦労の絶間がないわねえ。――苦労を一人でしよつてゐるんだわ。――ほんとに、――。
弟 ――(答無し。紙の音)
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間
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沢子 ねえ、恵ちやん。あんたは、いゝ姉さんを持つて仕合せだわねえ。私なんぞ、あるにはあるけど――(間)ねえ、もうお師匠さんとこへ出かける時間ぢやないの?
弟 ――(答無し)
沢子 早く切り上げて行かないと、また姉さんに叱られてよ。よ、恵ちやん。私はね――(続けようとするが奥の梯子段を昇つて来る足音に、言葉を切る)
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奥から女将の声
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声 沢ちやん。
沢子 ――
声 何を話してゐるの? ……大分元気さうだねえ。どう、身体の工合は?
沢子 えゝ……。
声 いつまでも、グズグズぢや私の方も困るんだがねえ。どうとかもう……。
沢子 えゝ、それは、よく解つてゐます。ゐますけど――腰がまだ痛んで――。
声 いえさ、無理をしろとは言やあしないさ。しかしねえ、お前が休んでから、もう一週間だからねえ。それに、なんだよ。こゝんとこ桟橋ぢやあんなに船が立てこんでゐて、あの連中今日明日にも下船するとかしないとか騒いでゐるんだろう。あんな、ストライキだなんて言つても、何にもなりやしない事はわかつてゐるさ。先《せん》の時だつてさうだつたものね。しかし私達にして見りや、こんな時に稼いどかなけりや、冥利が悪いと言ふもんだよ。それで――。
沢子 本当でせうか、下船すると言ふのは?
声 本当にも嘘にも浜ぢやまるで火事場の騒ぎだよ。おまけに、浜仲仕の組合でも一緒にストライキをおつぱじめるんだとさ。何が何だか馬鹿げたお話だけど、なんしろさうなると九百人からの仲仕が暇になるんだから、さうなるとお前、私の店だつて――。
沢子 ごめんなさい、おかみさん。それは、出ろと言はれれば明日からでも――。
声 何を言つてゐるんだよ、私や無理にとは言つてゐないんですよ。だけどさ、いくら何だつて私んとこだつて、それぞれの都合があるんだから――。
沢子 えゝ。わかつてゐますわ。
声 だから、なりたけ[#「なりたけ」に傍点]早いとこ快くなつてくれなくつちや――。
沢子 えゝ。おかみさん、なんなら、ぢや、私、今晩からだつて、私、貰ひますから。
声 いえさ、私や何も催促してゐるんぢや無いんだよ。初子はあんな事になるし、秋ちやん一人ぢや手がたりないから、つい、言ふんだよ。――だからさ、別に急ぎやしないやね、とにかく早く快くなつておくれよ。(降りて行く足音)
沢子 えゝ、――えゝ。
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短い間
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弟 畜生! 畜生が!(低い呪ふ様な声)
沢子 恵ちやん。
弟 畜生が! とにかくだつて! 急ぎやしないと言やあがるんだ。無理はさせないと言やがるんだ。――畜生が! 無理をさせようとしてゐるんだ。せき立てゝゐるんぢや無いか。
沢子 何を言つてゐるのよ?
弟 沢ちやん、お前、明日の晩になれば病気がよくなるのかい?
沢子 だつて、おかみさんが、あんなに言ふんだもの。
弟 彼奴は畜生だ、だに[#「だに」に傍点]だ。
沢子 そんな事、大きな声で言つてはいけないわ、恵ちやんだつて、まあ厄介になつてゐるんだから、もしも――。
弟 (泣く様に)さうだ、厄介になつてゐる。
沢子 ――それに、どうせ、私の身体は、いつまで休んでゐたつて、スツカリよくなる身体ぢや無いしね、私やつくづく――ほんとに――(声を立てないで泣く)
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短い間
[#ここで字下げ終わり]
弟 沢ちやん、お前、泣いてゐるの?
沢子 いゝえ、――泣いちやゐないのよ。泣いちやゐないのよ。
弟 ――工場であんな事にならなきや、よかつたんだ。俺の眼がこんなにならなきやよかつたんだ。そしたら俺が。
沢子 ほんとにねえ。
弟 そしたら俺が、皆をどうにでもしてやつてたんだ。姉さんだつて、こんな――。
沢子 しかし、恵ちやんの眼が開いてるたつて、仕様が無かつたのよ。――つまりが金なんだから、金には勝てないもの。
弟 ――どうにも仕様がない? ――さうは思はないんだ。俺、さうは思はないんだ。――そりや金は無いけど、眼が見えてゐたら、俺、殺してやるんだ。――あの畜生だとか皆の処へ来る水兵だとか職工だとか、書生だとか、船の奴等なんぞ、みんな、打殺してやれたんだ。――俺あ、何もかも知つてゐる。
沢子 ――
弟 姉さんは俺を一人前のあんまにしてやるために、夜になるとお師匠さんとこへ行かせるんだけど、だけど、それだけのためぢやないんだ。(間)姉さんは自分達が何をしてゐるかを、俺に聞かせたく無いんだよ。俺に知らせたく無いんだ。――しかし俺はみんな知つてゐる。――知らないでいゝ事まで知つてゐるんだ。――俺が人の肩につかまつてあんまをしてゐる時に、姉さんや沢ちやん達が何をさせられてゐるか、俺は知つてゐるんだ。すると、俺は人の肩なんぞもんでゐられない。――肩の骨をへし折るほど強くもんでやるんだよ。――その内にへし折つてやるんだ。
沢子 そんな事してはいけないわ。秋ちやんが心配してよ。秋ちやんに心配させまいと思つたらそんな事しないで、早くおとなしく勉強しなきや駄目よ。――それに恵ちやんが、どんなにくやしがつたつて、おいそれとは、どうにもならない事だもの。
弟 さうだ、どうにもならない――だから俺は。(眼を押へる)
沢子 それよりも、早く立派なあんまさんになることよ。そしたら姉さんだつてこんな所にゐないでもよくなるわねえ。
弟 世間の奴は、みんな畜生だ。俺と姉さんを置いてきぼりにしたおやぢ[#「おやぢ」に傍点]とおふくろ[#「おふくろ」に傍点]が第一畜生だよ。畜生!畜生!
沢子 そんな、それは恵ちやんにはまだ解らないわ。どんな訳があつたかも知れない。――私にだつて国には子がゐる。――もう三つになつてゐるわ。それに母親がこんななんだから。(寂しく笑ふ)
弟 何と言ふ名だよ?
沢子 忘れてしまつたわ。――いゝえ、忘れてしまはうとしてゐるの。だから、言はないで頂戴もう――。
弟 逢ひたいかい?
沢子 (寂しく笑つて)無いわ。いゝえ、逢ひたく無いわ。――逢はない方がいいわ。
弟 その子も、俺の様に封筒張りをしてゐるね?
沢子 さあね、しかしまだそんな事出来ないから――。
弟 いゝや、きつと封筒を張つてるよ。
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短い間
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沢子 しかし恵ちやんは、秋ちやんの様にいゝ姉さんを持つて、まだ、どんなに仕合せだか解らない。
弟 ――姉さんは夜おそくなつて一人で泣いてゐる事があるよ。隠してゐるんだけど、俺にやわかるんだ。――姉さんに今の様な事をさせないためなら、俺ら死んだつて関[#「関」に「ママ」の注記]はないんだ。あゝ、何でも無いよ。
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足音をさせないで職工服の秦が六畳の方へ入つて来る。包と辨当箱を下げてゐる。
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姉さんは、俺らのために、こんな事をしてゐるんだ。俺にや、いくら一生懸命になつても一日に十銭より封筒は張れないんだ。――畜生! 世間の奴等! 畜生! 肩を、へし折つてやるんだ。畜生!(荒く立上つて、三畳の左隅の障子を開けて出て行く)
秦 どうしたと言ふんだい?
沢子 あなた、又来てくれたの。
秦 どうしたんだい?
沢子 恵ちやんよ。秋ちやんの弟の。
秦 それはわかつてゐるんだけど、何をあんなに怒つてゐるんだね?
沢子 眼が見えないし、あの子も可哀さうなのよ。
秦 ――しかし別に今に始まつた事ぢや無いんだし――。お秋さん居ないの?
沢子 えゝ、昨日の臨検騒ぎで警察へ行つたつきり、まだ帰つて来ないわ。――なにね、先刻《さつき》おかみさんが来て、私に嫌みを言つたもんだから、それから恵ちやんが――。
秦 嫌みてえと、また――。
沢子 えゝ、早く出てくれなくちや困ると言ふのよ。
秦 その身体でか?
沢子 私、もうどうなつたつていゝから明日からでも貰ふつもりでゐるわ。
秦 そんなお前、無茶な――。
沢子 かまはないわ。――もう私なんぞ、こんなにひゞの入つた身上《しんしやう》だし。
秦 そいつあ、やけ[#「やけ」に傍点]と言ふもんだ。
沢子 やけ[#「やけ」に傍点]だつて何だつていゝぢや無いの。――それに寝てゐれば、食べるものだつてロクロク持つて来てくれないんだもの。――もう四日前から秋ちやんがおごつて呉れるものだけだわ、食べるものは。
秦 さうか――。
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間
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――あゝ、こないだ話してゐたの、持つて来たよ。
沢子 なあに?
秦 (包を出して)これさ、薬だよ。薬屋でさう言つたら、向ふの奴、ニヤニヤ笑つてゐやがつた。(寂しく)ははは。十日分も買つて来りやよかつたんだが、手が廻らなくて、これは三日分だ。無くなつたら又此の次にするよ。(弱々しく)しかし、食ふものも食はないぢや、薬だつて効くめえ――。
沢子 (泣き出してゐる)
秦 だけど、まあ、その内にや何とかなるよ。何を泣くんだね。困るなあ。泣く事は何も無いぢやねえか、え? おい(短い間)
沢子 (自分の気持とは反対の語調で)新さん、私、そんなもの要らないよ。
秦 え?
沢子 そんな薬なんぞ要らないよ。
秦 どうしてだよ。まあ? 急に又何を言ふんだ? お前の身体を心配すりやこそ――。
沢子 (強いて)ほつといておくれ、お前さん、そんな金がよくまああるね。――(泣声)お前さんにや、妻や子は可愛く無いの? 妻子の事は考へないの? なんだつて、なんだつて又私みたいなこんな――。私や知つてゐるよ。あんな気立のいゝおかみさんや子供をかつゑさしといて私に、私に薬を買つて来る金が、よくあつたねえ。要らないよ、私や。
秦 そ、そんな事を言つたつて――。
沢子 私やこんないけない女だよ。こんな、腐つた様な女のどこがよくつて、お前さん、妻子をうつちやつといてやつて来るの? たかが平職工の取る金位で、さ――。
秦 (気色ばんで)なに、なんだつて!(しかし再び気弱くしよげる[#「しよげる」に傍点])
沢子 さうぢや無いか。そんな、そんな余分の金が在つたら、おかみさんに、ちつたあお米の苦労位させなきやいゝぢや無いか。私が妬いてこんな事言ふ
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