んぢや無い事は、お前さんも知つてゐるね。――私や、お前の気が知れないよ。帰つておくれ、家へ帰つておくれ。帰つておくれつてば!(声を出して泣く)
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永い間
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秦 ――(独言の様に沈んだ調子で)そりや、知つてゐるよ。俺が一番よく知つてゐる。――内の奴あ、可哀さうな奴だ。子供だつて可哀さうだ。そりや知つてゐら。――お前と俺とは去年、此処でヒヨイと知り合ひになつたばかりの仲だ。――奴等あ俺のかゝあ[#「かゝあ」に傍点]や子供だ。それは知つてゐるよ。しかし、仕方が無えんだ。俺の気が弱いせいだから、仕方が無えんだ。――
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沢子 新さん。(やさしい)
秦 ――?
沢子 お前さん、お前さんは――。
秦 何だよ?
沢子 私が、もし、一緒に死んで呉れと言つたら。
秦 え?
沢子 いえ、もし、死んで呉れと言つたら、どうするの?
秦 どうする?
沢子 どうするの?(間)
秦 ――一緒に死ぬよ。――死なあ。
沢子 おかみさんや子供は?
秦 可哀さうだ。可哀さうだけど。
沢子 (気を変へて)お前さんは、馬鹿だねえ、冗談だよ。
秦 (相手の調子に釣られて弱く、薄笑ひと共に)馬鹿よりも、いくぢ無しの方だろう。
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間――二人ともヂツとしてゐる。
六畳だけに電燈がパツとつく。
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あゝ、電燈が来やがつた。(あたりを見廻はす)
沢子 もう帰らなきや、本当に悪くは無いの。
秦 あゝ、そろそろ帰るよ。(沢子に蒲団を着せてやる)お秋さんは馬鹿におそいねえ。
沢子 もう直きだろ。
秦 この薬は飲んでくれ。
沢子 せつかくだから貰ふわ。しかし今度から、そんな事するのは止してよ。――なあに、私、別に大した事は無いんだから。(女将に向つて何か言ひながら昇《あが》つて来るお秋の声)
声 ――えゝ、ようござんすわ、おかみさん、私からよくさう言ひますから。――沢ちやん今帰つてよ、どうなの、身体の工合は?
沢子 お帰んなさい。――ありがと、大分いゝわ。それで――。
お秋 (障子を開ける、勝気らしい、それで非常にやさしい表情をしてゐる)あれ、秦さん来てゐるのね。
秦 (辯解する様に)いや、ほんのチヨイと先刻、病気だつて言ふから、どうしてゐるんだらうと思つてね。どれ、ボツボツ帰るかな――。
お秋 ま、いゝわ、そんなに私を怖がらなくたつて、何も取つて食はうたあ言やしないから。
秦 なに、お秋さんからなら取つて食はれたつて、関やあしないけど、どうも――。
お秋 あんな事を言つてるよ。私の居ない時をねらつてチヨクチヨク此処へ来てゐる癖に。ね、沢ちやん。
沢子 (微笑)どうだか。――それで秋ちやん、どうだつたの、××の方は?
お秋 なあに、何でも無いのさ。初めつから別にどうしようと思つてした事ぢや無いんだもの。あの××なんぞ、私の背中を撫ぜたりしてね、俺が今度行つても、あげて呉れるかなんて言ふのよ。――人を馬鹿にしてるわ。
沢子 ――済まないわねえ、いつも秋ちやんにばかり苦労をさせて。
お秋 何を言つてゐるのよ。それがあんたの癖よ。これ位の事、私や苦労とも何とも思つてやしないわ。あたり前の事だわ。
沢子 済みません――。
お秋 ま、何を言ふんだねえ。――(三畳の方を顧みて)恵一はもう出かけたか知ら。
秦 さつき、何か怒つて出て行つた。
お秋 怒つて?
沢子 なに、私と少し話をしてゐたばかりよ。
お秋 (心配を押し包んで)あの子はとても[#「とても」に傍点]怒りんぼだからね。眼が見えないもんだから、ひがみ[#「ひがみ」に傍点]もあるのよ。
秦 眼は両方ともまるで見えないの?
お秋 えゝ。――見えないと言つても、眼はあんなに開いてゐるから、はた[#「はた」に傍点]から見ると盲だとは思はれない位よ。しかし時に依ると、物の形だけ極くボンヤリと見える時もあると言つてゐるんだけど、どうだか。
沢子 そんな事を言つて秋ちやんに安心させたがつてゐるのよ。――姉さんのためなら、どんな事でも、何でもする、と言つてたわ。
お秋 (寂しさを押しかくし笑つて)そんな事を言つたつて、盲の子供に何が出来るもんか。
秦 先に工場へ行つてたつてねえ?
お秋 えゝ、その頃はよかつたんだけど、生れつき弱い奴だし、それに、何ですか、工場であんまり細い仕事をさせられて眼を悪くしちやつてね。――しかしま、もう後二年もすれば相当のあんま[#「あんま」に傍点]さんになるつて言ふんだから。
沢子 さうなつたら、いゝわね。秋ちやんもさうなれば。
お秋 どうだか。あぶないもんだわ。
沢子 秋ちやんも、それから恵ちやんも、仕合せだわねえ。――私なんざ――。
お秋 また? 又、そんなに泣き出すの。泣虫――。私達姉弟にくらべて、お前さんがどう不仕合せだつて言ふの? もう後、たつた一年で何もかも気楽になるんぢや無いの。そりや、そりや、そりやかうして、こんな所にゐるのは、地獄にゐる様なものさ。だけど、そんな泣言を言へば、それがどうなると言ふの? 地獄は地獄さ。それがどうしたつて言ふの? 泣虫!
秦 さうだ、さうだ、そんな今更言つて見たつて――
お秋 それより早く、身体を治してさ、ピンとしてりや、そんな――。
秦 さうだよ。人間、苦しいことを言へば、きりは無えんだから。俺なんぞも、これで、お前――。
お秋 そんな事言つても、(咎めると言ふよりはなだめる様に)新さん、ノコノコ沢ちやんに通つて来るんだからね。小さいのは、達者?
秦 こいつあいけねえ? 藪蛇だ。もう帰る、帰るよ。あやまつた。
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三人弱々しく笑ふ。
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お秋 (しんみり)おかみさんもだけど、小さいのには、よくしてやらなきや駄目よ。親に捨てられたが最後、子供はどうなるか知れないんだから。私達姉弟がいゝ見せしめだわ。
沢子 ――私も早く帰つて呉れと、先刻から言つてゐるんだけど――。
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秦、しよげている。
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お秋 私にやわからないわ。新さん、私、変な事を言ふ様だけど、あんた、家を持つてゐる身体で、どうしてそんなにこんな所にばつかりやつて来るの?
秦 そんな、俺だつて、さう始終やつて来るんぢや無えよ。
お秋 だつてさ、さうぢや無いの? あんたが妻子《つまこ》がありながら、沢ちやんの所へ来るのも、度々言ふけどそんな気持も、私だつて解つちやゐるのよ。そりや人間には、自分がかうと思つても、さうならない事もあるもんだわ。――だけど、つまりが、それは間違ひだわ。
秦 そりや俺だつて――。
お秋 知つてゐるなら、どうしてさうしないの? しかし、私はさう思ふわ、物事はやつて見なきやならないのよ。やつてみなきや、出来るか出来ないか、わからないのよ。
秦 わかつた。わかつたよ。
沢子 この人はいくぢ[#「いくぢ」に傍点]無しよ。
秦 いくぢ無しだ。さう言はれりや――。考へて見りや家の奴等が可哀さうだ。さう思つてはゐるんだけど――。今度の騒ぎだつてさうだ。俺にはどうしなけりやならんかは、よくわかるんだ。それで何も出来ない。黙つて見てゐることしか出来ない。――俺と言ふ男はさうした人間なんだ。
お秋 …………。
秦 さうだから仕方が無えんだよ。
お秋 さうした人間だつて、あゝした人間になれない事は無いわ。その時が来れば。
秦 (ボンヤリと)さうさ、――時が来れば。(間)俺には今度の阪井さんの気持だつてよくわかるんだ。阪井さんの言ふことは本当だ。船の連中だつて仲仕の方だつて同じだ。連中がせつかくあゝやつてストライキを始めたのを、それを仲仕の方ぢや応援もしてやらねえで、あべこべに撲るなんて間違つてらあ。
沢子 随分けが人が出たつてね。
秦 あゝ、そん中の三四人はウツカリすると死ぬかも知れねえ。――みんなが阪井さんの言ふ事を聞かねえんだ。あの剛腹な、ウインチに片腕もぎ取られても笑つてゐた阪井さんが、泣いてゐたのを俺は見た。秦君、俺ももう手を引くよつて言つた。
お秋 手を引くつて、なんだつて又――。
秦 もう、あいそが尽きたんだろ。尽きもするわね。
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短い間
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お秋 本当にもう帰つたらどう?
沢子 お願ひだから、帰つて、私、苦しくなるから。
秦 あ、帰るよ。――(立上る)大事にして呉れ。(出て行く)
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間――お秋は今秦の言つたことをヂーッと考へこんでゐる。
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お秋 (気を変へて)沢ちやん、あんた、泣いてるんぢや無い?
沢子 ――いゝえ。
お秋 (薬包を見て)これ何?
沢子 新さんが持つて来て呉れたのよ。
お秋 薬なのね。――私にもようく解るわ。本当に、あんたも新さんも――。(語調を変へて)馬鹿だよ。
沢子 秋ちやん、私や、私や、もう――。
お秋 ほら、ほら、もう始まつた。私《わたし》や聞かないわよ。おのろけなら、もう沢山。
沢子 ――秋ちやん、――あんたは私《あたし》には、本当の姉さんの様に思へる。秋ちやんが居なかつたら私、もうとつくに死んでしまつてゐるわ。
お秋 (わざと嘲る様に)何を馬鹿々々しい! 私は、そんな、愁歎場は大嫌ひだわよ。いゝ加減そんなメソメソした事は聞き飽きてよ。初ちやんの時にも散々《さんざ》つぱら見せつけられてゐる上にさ――。
沢子 初ちやんだつて、そりや、秋ちやんをお母さんの様に頼りにしてゐたわ。
お秋 まあま、お母さんだなんて、可哀さうに私をいくつだと思つてゐるの。
沢子 だつて、そうだわ。秋ちやんがあんなに骨を折つてあげたからこそ、町田さんと一緒になれたし、それに。
お秋 もう沢山。――しかし初ちやんと言へばどうしてゐるんだろう。
沢子 あれから一度も手紙も来ないの?
お秋 それは、私が手紙のやりとりなんかしないと言つといたからね。あゝやつて、やつとこんな泥水の中から逃げ出せたんだもの、もうそんな泥水の事なんぞ、こつから先だつて思い出しちやいけないんだわ。
沢子 うまく行つてるかしらん。――杉山さんとはスツカリ手は切れたの?
お秋 そりや、もう、とつくに切れてるわ。――さうさ、うまくやつてるのよ、きつと。町田さんはあんなんだし、初ちやんは断髪だし、モダンボーイにモダンガールとやらで、よろしくやつてゐるのよ。
沢子 うらやましいわねえ。
お秋 うらやましいわ。
沢子 それと言ふのも――。
お秋 黙れ! ははは、これは阪井さんの真似よ。(右手を突出して)そんなこつ言ふのは黙れ!
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二人笑ふ。
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沢子 阪井さんと言へば、今秦さんが、騒ぎから手を引くと言つてゐたと言つたけど、阪井さんが居なければ、組合の方では困ると言ふぢや無いの。本当かしら?
お秋 何が?
沢子 手を引くと言ふこと。
お秋 私にやよく解らないわ。
沢子 近頃阪井さん来ないの、秋ちやんとこ。
お秋 時々来るにや来るけど、あのだんまり屋が、――たまに何か言ふと、黙れ!(右手を突出す)
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二人笑ふ。
階下《した》から呼ぶ女将の声。
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声 秋ちやん! 秋ちやん! 何よ[#「よ」に傍点]してゐるの? 秋ちやん!
沢子 おかみさんが呼んでゐるわ。
お秋 お客が来たんだわ。なに、少し放つときやいゝんだ。
声 秋ちやん! 何を又グズグズしてゐるの、少し下にも来てお呉れよ。私一人ぢや手が足りなくて困つてゐるんだから。
お秋 (障子から顔だけ奥へ突出して)はい、はい、今行きます。
声 はいはいぢや無いよ。御病人の看病は後にしておくれよ。この忙しいのに!
お秋 わかつてるわ。私、直ぐに仕度をしますから。
声 病気々々つて、何が病気だか本当に知れやしないよ。まるでお嬢様みたいに思つてゐるんだからね。(二階まではハツキリ聞へないが、まだグズグズ言ふ)
沢子 秋ちやん、私、今晩から起きるわ。その方がいゝわ。一人か二人のお客だつたら――。
お秋 何を馬鹿を言つて
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