た、今の連中が言つた、なあお秋んべ、さうだ阪井なんて男は、さう言つたんださうだけど、なにしろ、仲仕の方は昔からのしきたりで親方がゐたり何かして、うまく行かないんださうだ。――それもさうかい。
客一 だが、これが、どうも世の中が段々おだやかで無くなつて来たなあ。
客二 止さう、そんな話。酒がうまく無えや、秋ちやん、もう一杯。
お秋 まだ?
客二 まだ? じよ、じよ冗談を。まだやつと三杯だ。何を言つてるんでえ……。
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身体のガツシリした、左腕の無い阪井が冷たい沈んだ顔をして、黙つて入つて来る。
[#ここで字下げ終わり]
お秋 あ、阪井さん、今、あの――。
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客達が阪井を見る――阪井黙つて左側の椅子にかける――間。
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お秋 どうしたの?
阪井 ……(黙つてお秋を見る)
お秋 たつた今さつき、合宿の人達が大勢で見えて、あんたを捜してゐたわよ。――さう言つてくれつて、あんたが帰らなきや困るつて、山三の親方なども来てゐるつて。
阪井 さうかね――。
お秋 どうしたの? 身体の加減でもいけないの?
阪井 いや。
客一 おい、お秋ちやん、勘定だ。
お秋 はい。ありがたう。(客一の方へ行く)もうお帰り?
客一 又来るよ。今夜はこれからまだ山の手の方に用事があるんだ。
お秋 さう、いゝわね、いゝ人んとこ?
客一 冗談言ふなよ、それどころかい。あばよ。(出て行く)
お秋 左様なら、又どうぞ。(間)
阪井 おい、酒をくれ。
お秋 酒? あんた、酒を飲むの? 飲んでもいゝの? (左肩を押て)こゝ痛みやしないの?
阪井 大丈夫だよ。なあに。
お秋 さうー(酒を棚から下ろし、注ぐ)
客二 お秋ちやん、もう何時だい?(言ひながら阪井の方を覗《うかゞ》ふ様に注意してゐる)
お秋 さうね、(奥へ向いて)おかみさん、今何時です、おかみさん(返事無し)おや、居ないのかしら、――(奥へ入る)
客二 (阪井に)阪井さんと言ふんでしたね。
阪井 ……(相手を見てゐる)
客二 どんな風なんです浜の方は。
阪井 ……(黙つて酒を飲む)
客二 あんた、朝鮮へ行くと言ふのは本当ですかね? いつ行くんですか?
阪井 (相手を見て苦笑をする)
お秋 (出て来ながら)お湯かな、お湯へ行つたんだわ。あの今九時少し廻つたばかり。
客二 九時過ぎだつて? そいつあいけねえ、此処へ置いとくぜ。
お秋 あら、あんた、二階へ上つて行くんぢや無かつたの。
客二 さうしちや居られないんだ。又今度だよ。どうも世間がかうザワザワしてゐたんぢや、これでユツクリ遊んでも居られないや。ぢや。(出て行く)
お秋 変だわねえ――。
阪井 今のは何と言ふ人だい?
お秋 さあ、二三度来たばかりの人で、名前は知らないわ。
阪井 さうか……。
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客の中の一人はテーブルに寄つたまゝ酔つて居ぎたなく眠つてゐる。その他の客は、以下劇の進行中に目立たない動作をして出て行く。
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お秋 阪井さん。
阪井 ――(顔を上げる)
お秋 あんた朝鮮へ行くんだつて。
阪井 ――あゝ。
お秋 (手に持つてゐた何かをガタンと床に取落す。それを拾ひ上げて)さう――。どうして朝鮮なぞへ行くの。
阪井 どうして?
お秋 朝鮮に知つた人でもあるの?
阪井 そんなもなあ居ない――。
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前に出た仲仕の中の一と二と三が急いでドヤドヤ入つて来る。
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仲仕一 あ、居た、居た、居た! おい阪井君大概いゝ加減にしてくれ。捜したつて無かつたぜ。
仲仕二 のんきだなあ、俺達がこんなに心配してゐるのに御本尊はこんな所で酒をくらつてゐる。早く合宿へ戻つてくれよ、よ。
阪井 どうしたんだい?
仲仕一 阪井君、そりや、君の気持は俺達にもよく解るんだ。君が手を引くと言つた時にや、だから、俺達としては何とも言へなかつたんだ。しかし、君事情が今の様になりや。
仲仕三 船はもう大概空家同然だ。協会の方からもよろしく頼むと言つて来てゐるんだ。今俺達がフンバラなきや、何もかもオヂヤンだ。船の連中はまだ解雇はされてゐないけど、船主《せんしゆ》側の方でいつなんどき解雇してもいゝ様に、船員をかり集めてゐる。そのかり集め方を俺達の組合へ頼んで来てゐやがる。船が動かなきや荷役の方でも困るだらうから、よろしくお願ひしますと言やがるんだ。糞くらえ!
仲仕一 だからよ、今俺達がガンバラなきや、船の連中のストライキを俺達が破ることになるんだ。
阪井 ――俺は初めからさう言つた。
仲仕一 それがさ、あん時迄は俺達にはよく解らなかつた。然し君に煮湯を呑ましたなあ俺達ぢや無かつた。
阪井 それは知つてゐるよ。そんな事は、どうでもいゝさ。
仲仕二 ぢや来てくれるね。早く来てくれ。俺達十人ばかりで、組合の方にやつと三百人ばかりの連中をかき集めたんだ。今ワイワイ言つてゐる。何か喋つてくれ、奴等にどしやう[#「どしやう」に傍点]骨を入れてやるのはお前で無きや出来ねえんだ。
阪井 そんな事を言ふな。今俺にはそんな元気は無い。今奴等の顔を見たつて俺には何も言へやあしない。
仲仕二 そ、そ、そ、そんなお前、そんないこぢ[#「いこぢ」に傍点]にならなくたつて。
阪井 いこぢ[#「いこぢ」に傍点]になつてゐるんぢや無いよ。俺は去年、この片手がウインチに、あんな事で喰ひ取られた時から、自分一人のいこぢ[#「いこぢ」に傍点]な根性なんか捨ててゐる。――そんなこつちや無いんだ。
仲仕一 しつかりしてくれ、しつかりしてくれ、君が、君がそんな風だつたら、俺達はどうなるんだ。それを考へてくれ! 君は、君つて男は、自分一人の阪井ぢや無えんだ。俺達の阪井だ。
阪井 ――今になつて君等はそう言《いふ》んだ。――俺の気持がこんなに押しつぶれつちまつてから。――ぢや言はう、この前の時も俺達は負けた。あん時、俺はたつた一人の妹を取られた。妹は俺をうらんで死んだ。勘辨してくれと俺が何度言つても、黙つて石の様に何も言はないで、俺を睨んだまゝ死んだ。あん時の顔が、あん時の妹の顔が――二三日前から、組合の連中の顔から俺を覗くんだ。俺をヂツと見るんだ――俺はさう思つた。これでおしまひだ。俺は奴等に何も言ふ資格が無い。誰かがその内に奴等の眼をさましてくれる。しかしそれはおれぢや無い。俺は途中からどつかへ落つこちる人間だ。沢山の俺みたいな人間が落つこちて、その後に来る奴が本当に皆の役に立つんだ。それは俺ぢや無い――。
仲仕一 だからよ、たゞさう言つてくれりやいゝんだ。俺の妹は俺をうらんで、俺を睨みながら死んだ。皆な自分の身内の者をそんな目に合はさない様にしつかりしろつて、さう言つてくれ。一時おくれりや一時の負けだ。丸《まる》二や山東《さんとう》や丸菱《まるびし》ぢやもう買収を始めてゐるんだぜ。奴等只でさへ腰がフラフラしてゐるんだ。
仲仕二 ぢれつてえな。おい、阪井君、君は。
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一人の仲仕が戸を突き飛ばす様にして入つて来る。
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仲仕 おい大変だ、早く来てくれ、本部に手が廻つてもう帰らうとしてゐる連中が随分ゐる! 今、ワイワイ騒いでゐる。早く来てくれ、手が足りねえんだ。
仲仕一 よし、ぢや丸菱の親爺に口を利かせるな、行かう、おい、阪井君来てくれ、君が来てくれなけりや――
阪井 俺なんかを頼りにしないで、やつてくれ。
仲仕二 ま、ま、まだ言つてゐる! そんなお前、そんなお前――。
仲仕一 とにかく、阪井、誰が何と言つたつて君が来て喋つてくれないぢや、皆は何ともならないんだ。考へ直してくれ。俺達は先へ行くから、放つとけねえんだから、頼むぜ、頼んだぜ。
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仲仕達急いで出て行く。間。
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阪井 (それまでヂツト隅の椅子から自分を見詰めてゐたお秋に)――もう一杯。
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お秋黙つて立つて酒を注ぐ。短い間。
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お秋 阪井さん、あんた本当に行かないの?
阪井 ――何が?
お秋 ――私や、今迄そんなあんただとは思つてゐなかつた。(短い間)
阪井 俺だつて。――ま、そんな事はもう言つてくれるな。――何だか馬鹿に気が滅入つていけねえんだ。こんな男だらうよ。
お秋 弟なんぞは、あんたのことを、いつも何て言つてゐるか。――だのに、あんたは、皆をおいてきぼりにして、朝鮮へ行くと言つてゐる――。
阪井 俺はこんな片はだ。そして一人ぼつちだ。
お秋 一人ぼつち? ――さう一人ぼつち。(下を向いて)私はこんな淫売だから――。
阪井 なに? 何だつて? それがどうしたんだい。俺は自分の言つたことは忘れやしないよ。俺がシヤンとして働ける様になれば、お前を女房にすると言つた。今でもさう思つてゐる。
お秋 まつぴら。
阪井 なに?
お秋 まつぴらだわ。私はいつまでも淫売で結構。
阪井 さうか――まあ、いゝ。
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表――即ち舞台奥を何か罵り騒ぎながら走り過ぎて行く多勢の人の足音、その音に、唯一人残つて眠つてゐた客が目をさましてキヨロキヨロするが、再び眠り込む。
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お秋 おや、どうしたんだらう?(戸を開けようとする)――(同時に、二階から階段に音を立てゝ杉山が降りて来て、階段の昇り口に立つたまゝ)
杉山 おい、お秋さん。
お秋 (戸に手をかけたまゝ)え?
杉山 いゝ加減にもう出してくれてもいゝぢやねえか。
お秋 くどいわねえ、居ないと言つたら居ないのよ。
杉山 そんな事を言つたつて、彼奴が町田んとこに居なくなりや、来るとこは、此処より外に無いぢやねえか。よ、そんな意地の悪いことを言はないで、チヨイとでいゝから逢はしてくれよ。
お秋 あんたもくどいのね。居ないものは何と言つたつて居る筈が無いわ。――よしんば、居るにしたつて、あんたがそんなに初ちやんの尻を追廻すことなんぞありはしないぢや無いの。
杉山 わからねえ奴だなあ。俺が彼奴を捜すなあ捜す訳があつての事だ。よし、そんな事を言やあ、初子が俺の前に姿を現はすまで、二階でお邪魔をするぜ。
お秋 えゝ、えゝ、さうしてりやいゝわ。
杉山 後で引退《ひきさが》つてくれつちつたつて俺は知らんよ。いいな。
お秋 (返事をせず)(杉山再び二階に上る)
阪井 どうしたんだよ。今のは?
お秋 なあに、例のお初ちやんさ、あの人を追廻してゐる人なの。
阪井 だつてお前、お初ちやんは、あん時チヤンと話がきまつて、何とか言つた、あの――。
お秋 町田さんところで、一緒に暮してゐたんだわ。それを今の人が未だにしよつちう、うるさくするもんだから、町田さんの家を昨日飛び出したつて言ふのよ。
阪井 へえ。(間)
お秋 阪井さん、あんた組合の方へは行かないの?
阪井 行かない。行つたつて今の俺にや。――今夜此処へ泊めて貰ひたいと思つてゐるんだ。合宿へは行きたくねえから。
お秋 えゝ、それはいゝけど。
阪井 なに、ホンの寝るだけだ。商売の邪魔はしない。恵ちやんの部屋だつていゝ。
お秋 いゝのよ、そんなこと、居たいだけ居ていゝわ。
阪井 恵ちやんはまだ帰らないのか?
お秋 えゝ、まだ。
阪井 ほんとにお前も大変だなあ。
お秋 (いろんな意味の怒りを一緒にして顔を引きしめて)なんなの?
阪井 え? 何んだよ? どうしたんだよ?(短い間――お秋はその間に元の様になる)
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阪井二階へ行かうとして立上る。
お秋は阪井を見る。
[#ここで字下げ終わり]
お秋 あんたの死んだ妹さんは、あんたをうらんで死んだ。睨んで死んだわね。
阪井 ――?
[#ここから2字下げ]
暫く見合つたまゝ立つてゐたが、阪井の方から階段口の方へ歩き出す。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]――幕――


(三)[#「(三)」は縦中横] 同じ場所


[#ここから2字下げ]
夜更。
客は去つてしまつてガランとしてゐる。四十に近い女将は何かブツブツ言ひながら、店と奥との間
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