―(と注射器を示す。その銀色のケースが、何かの凶器のように光る)
織子 あなた! でも、あの、あなたも、もっと落着いてから、あの――
舟木 私は落着いているよ。
織子 でも、あの柳子さんの事は――いえ、もうあの、もう、あなた、お願いですから、およしになって下さい! 私たち今夜にでも此処から出て行きましょう!
舟木 なんだ? 何を言っているんだ? ハハ、お前こそ落着きなさい。真青な顔をして眼が充血している。(寄って行き、手のひらを妻の額に当てる。当てられて、織子、ふるえあがる)……熱も少しある。どうした、寒気がするのか? ……昂奮しすぎる。お前にも一本さしてあげようか?
織子 い、いいんですの、いいんです! お願いですから、あなた、もうサナトリアムなど、私たち、どうでもいいじゃありませんの? 私たちはこのままで、今のままで幸福なんですから、あの、そんな事はお考えにならないで此の家を出て、あの――
舟木 サナトリアムがどうしたんだよ?
私 舟木さん、あんたサナトリアムを立てるというのは、本当ですか?
舟木 う? そう、事情が許すようになれば是非やって見たいと思っていますよ。まあ、それだけのために、今の変な病院なんかにも、がまんしてつとめているわけでね。現在の日本のそう言った施設など、ちょっと来て見ればわかる。実にもう成っていないんだ。たとえばサナトリアムだけを取って見ても、大体、テーベーに対する局所的な、しかも主として対症療法を、主として、結局一言に言うと、クランケを唯寝せとくと言うのが大部分ですよ。ホントは、ホントのサナトリアムと言うものは、人間の生命全体、と言うよりも人間が生きるという事全体の意味と方法を掴むための実際的指導をする所でなければならんのだ。病気が治っても、人間として廃人が出来あがっても無意味なんだから。それを今の大概の医者は忘れている。テーベーのホントの処理は、テーベーだけの範囲のことを、いくらいじって見ても、結局は何の答えにもならない。私はそう思う。私は自分のサナトリアムで、全く新らしい、つまり、人間が生きると言う事全体の中での一プログラムとしての病気と言うものを――だからテーベーとは限らないんだ――そいつを考え、解決して見たい。そこから――(いつの間にか熱中して話しつづける。調子がいつもの舟木と少しちがう)
織子 もうよして! お願いですから、もうよして下さい!
舟木 なんだ?
私 しかし、どんな冷静な科学者にもパラノイアは有り得る。
舟木 うん? ……(ジロジロ私を見て)それは有り得る。
私 狂人を診察している医者が、その狂人よりも深く狂っていると言う事だって、あり得ない事ではない。
舟木 うん、そりゃ……あんた、何を言う気だ?
私 此の家の相続権は、広島の老人が死ねば柳子さんに来るそうですね?
舟木 そうのようだな。
私 ……そして、あなたにも、多少権利が有る。
舟木 いや私のは権利と言うよりも、非公式な、ここの元の主人の手紙だとか何とか、遺言書ではないから、表面上の効力は無いだろう。しかし実質的には、一番強い権利があるとも言えない事はない、私が主張する気になれば、全部譲渡すると言う伯父自身の自筆の文書なんだから、さて、しかし、どんなもんだか――とにかく、いずれにせよ、広島の伯母はまだ生きているし、柳子さんと言う人もいるし、まだまだ先のことで、現在問題にはならんだろう。ハハ、しかし、なぜあんた、そんな事を言うんだ?
私 いや僕は別に。ただ、奥さんが、心配なすっているもんだから――
織子 お願いですから、あなた! もう私たち、ここを出ましょう! いいじゃありませんの、そんなサトナリアムだとか何とか、どうでも――私は、怖いんです!
舟木 ああ、(私に)これはクリスチャンです。クリスチャンには、大概、一種の被害妄想――ではない、自分も他人も年中悪を犯しているような、罪を犯してるような気がしている。そのコンプレックスのちく積を裏返しにしたものが神だ。だから逆に神の存在そのものが、そんなコンプレックスを生み出す第一の固定観念なんだな。ハハ!
織子 笑うのはよして下さい! お願いですから――
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(そこへ、着くずれた着物のままで、若宮がヨロヨロしながら入って来る)
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房代 あ、お父さん、ど、どうしたの?
若宮 ……(眼をキョトキョトさせて)うむ。舟木さん、どこだ?
舟木 私はここに居る。どうしました?
若宮 やあ。あんたに私あ――私あチョイと聞きたい事がある。チャンと返事をしてほしいと思う。本当の事を聞かしてほしいんだ。
舟木 ……なんだろうか?
若宮 あんた、私のからだの事で浮山に言ったそうだな? ホントは心臓も悪い。心臓の方が悪い。もう永いことはない。……そう言ったそう
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