冒した者
――Sの霊に捧げる――
三好十郎
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【テキスト中に現れる記号について】
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人物
私
須永
舟木(医師)
織子(その妻)
省三(学生・舟木の弟)
若宮(株屋)
房代(その娘)
柳子
浮山
モモちゃん
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1
そうだ。もう芝居は、たくさんだ。いつまでやって見ても果てしの無い話だ。私たちの後ろにかくれて、私たちを踊らせている者がある。私たちはそれに気が附かずに、自分は自分の意志で自分のイノチを生きていると思って居る。そして自分を取りかこんだ観客から見られ、見られることで得意になり、セッセと演技をつづける。後ろにいるやつは、そこまで知っている。そこまで計算している。
私たちの腹の底の底まで見抜いている。私たちがどう考えてどっちに転んでも、自分の演出の外へ抜けだすことは出来ないことを知っている。だからそいつはニヤニヤと声を立てないで笑っている。
しかしもう飽きた。もうたくさんだ。なるほど、そいつの演出の外へ抜け出すことは出来ないかも知れないが、こうして、フフ、後ろを振向いて――見ろ――チラッと、こうして、そいつの顔をチラッと見てやる事は出来るのだ。そいつは、きまりを悪がって、顔をふせて、サッと居なくなる。又すぐ戻って来るが、いっとき居なくなる。その時間だけは私のものだ。この時間だけが私の自由だ。誰も私を演出していない。誰も私を見物していない。だから私は演じなくともよい。人のために自分の表情をゆがめる事なく、自分自身のためだけに僅かばかり生きるのだ。
そうなのだ。私に入用なものは、生まのままの人生の荒々しい現実のひとかけらだ。ありのままの事実だけが必要だ。誰もが、それをああ眺めたり、こういじくったり、明るい光を当てたり暗いカゲを投げかけたりして色々の意味を附けない前の、全く意味のわからない、しかしたしかに現実そのものにはある――土の中から掘り出したばかりの、ひとかたまりの岩のように、荒れよごれて何の岩だかわからないが、岩であることだけはまちがいない、それだけが必要だ。犬は生の意味を悟らない。しかし生きている。犬のように私は生きねばならない。どうせその意味を悟って見たところで、ライフにはたくさんのひどい苦しみと、たくさんの中位の苦しみと、ごく僅かばかりの楽しみがあるきりだ。なぜそうなのだろうと考え迷った末に私はこれまで二度ばかり自殺しかけたことがある。
今でも私は迷っている。わかった事は一つも無い。だのに私は自殺はしないだろう。……お前は死んだ。妻よ。私の中から何か大きなものを根こそぎ持ち去ってどこかへ行ってしまった。私は自分がどう言うわけでここにこうして生きているのか、生きておれるのか、まるでわからない。なるほど、お前はそこに居る。そこに私と並んで坐って私を見つめ、こうして私が原稿紙に書いている文章を読み、私の頭の中の考えの流れを見ている。お前はどこへも行きはしない。だのにお前はもうどうしようも無い遠方に行ってしまった。私は悲しんではいない。私の目に涙の影は無い。しかし前向きに進んで生きようとする気分も無い。喜びの明るい色のひとかけらもない。明るくはないが暗くも無い。そうなのだ。ほんとうに、生きて行きたいとは、まるで思わない。だのに私は自殺しようとは思わないし、自殺しないだろう。
私の瞳孔は散大してしまったのだ。既に何一つ見ない。しかしすべてを見ている。そして、ただ見ているだけだ。阿呆のように、ただ見ているだけだ。見えているものの意味をわかろうとはしない。この眼は既に「意味」に疲れてしまったのだ。この眼には、生まの荒くれた現実のひとにぎりが映るだけなのだ。だからもう私は芝居は書きたくないと同時に実は書けもしないのだ。意味のハッキリしない現実のコマギレだけを並べても芝居にはならぬからだ。そして芝居を書かねば金も入らぬ。金が入らねば追々には食う物もなくなり身体は弱って倒れるだろう。それもよかろうと思っている。そう思っても人ごとのように枯れくちて倒れた自分の死骸を冷たく眺めている私がいる。
ところで、なぜ私はこんな所に一日坐ったきりで、こんな事を考えているのだろう? もう暗くなって来た。ペンの先がほとんど見えない。スタンドのスイッチを押せば明るくなるが、明るくしても、しかたが無い。妙に息苦しいのだ。昨日や今日の事ではない。ズーッと息苦しく、段々それがひどくなる。どこか身体が悪いのかと四五日前に舟木さんに診察してもらったら、気管が少し痛んでいるが息苦しくなるほどのものでは
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