ないと言う。その他にも原因は見出せないそうだ。だのに、やっぱり息苦しい。空気の密度が次第に濃くなって来て、しばらく前までネバネバとしていたのが段々にそれは石か木のような固体にでもなったように、はじから齧りでもしなければ呼吸できないようだ。やがて次第に呼吸は短かく浅くなり、頭はモウロウと目はかすんで手も足も動かなくなるのだろう。戦争からはこうして生き残ったけれど、あれだけの大戦争であれだけたくさんの人々が死んだのだ。いずれはわれわれもこのままではすむまい。爆弾では死ななかったが、いずれは何かで殺されるのだろう。覚悟だけはしていよう。そう言ってお前といっしょに笑ったね。今も私は笑っている。浅い短かい呼吸の中でも笑えるのだ。
 そうだ、もしかすると息苦しいのは、幾分はこの室のせいかも知れない。この家のせいかも知れない。
 この家は、お前の最後の三月間を診てくれた舟木さんが、お前が死んで私一人あの海ぞいの家に取り残され家主から立退きを命じられ、行く先が無いのに困っているのを見るに見かねて、管理人に頼んでやるからと、連れて来てくれた家だ。今はもう亡くなった元満洲国の大官をつとめていた人の邸宅で、その未亡人はもう九十歳に近く、戦争中に広島県の田舎に疎開したきり中風で倒れて口もきけず、寝たきりでいるそうで、三階建ての室数二十四五もある家が三カ所ばかり焼夷弾を食ったり自然の荒廃のためくずれこわれて、現在使える部屋は七つ八つになり、それでも外がまえだけは傲然とした姿で、東京郊外の高い台地の、後ろはかなりの崖になった広い庭園の、その一番奥に立っている。他に戦争中防空室に使っていた地下室と、それから、これは、元の主人の大官がなんの好みかわざわざ建てさせた塔が、三階の上に又二階位の高さにそびえていて、そのこわれかけた塔の上に昇って真下に見える後ろの崖の底でも見ると眼がまわりそうで、そこまでだと六階ぐらいの高さがあろう。まわりの庭園は荒れ果てている。
 この家に、家族にして四家族、と言うか五家族と言うか、九人の人が住んでいる。みんな良い人たちだ。三階で使えるのはこの部屋だけで、ここに私が一人だ。元の主人の書斎兼寝室で、英国製の、おかしいほどクッションの良いダブルベッドが作りつけになっている。二階には医師舟木さん一家と株屋の若宮さんの一家とそれから柳子さんが住んでいる。
 舟木さんは大きな公立の病院につとめている内科の医者で、奥さんの織子さんと弟の省三君との三人暮しで子供は無い。織子さんは女子大出の理智的な美しい人で、省三君は大学の法科に行っている。
 株屋の若宮さんは娘の房代さんとの二人暮しで柳子さんが以前株を大きくやっていた時の相談役だった人だ。娘の房代さんは英語が出来るので進駐軍の施設につとめている。
 柳子さんは、元のこの家の主人の大官が、赤坂の一流の芸者に生ました子で、少女時代は非常にぜいたくに育ち、女学校を終ってから音楽学校の邦楽科を途中まで行き、終戦後、一時芸者に出ていたこともある。長唄の名取りで、ことに三味線は家元にも重んじられる程の名手だと言う。現在は一人暮しで、家中で一番立派な二階中央の広間とその次ぎの間の二室を占領している。サッパリとした、いつも機嫌の良い人柄だ。ただ時折、夢中になって三味線を弾くが、そういう時に声をかけてはならない。先程から微かに聞こえて来ているのがそれだ。……
 一階には使える部屋が、食堂とそれに続く居間の二つしか無く、浮山さん一家が住んでいるきりだ。一家と言っても浮山さんは独身だし、引き取って養っている遠縁のモモちゃんと言う少女との二人暮しだ。もと絵を描いていたが、いつ頃からかそれをフッツリとやめてしまった。今はオモトやランの栽培にこっている。近頃では地下室でマッシュルームの養殖もしている。若い時はさんざん道楽をしたと言うが、今はもう枯れ切ったと言うか、物わかりの良い、ひょうひょうとした人だ。広島で寝ている未亡人の、またいとこに当る縁のため、早くから此処に住んで管理人になっているが、この家屋敷は何か複雑な関係で二重の抵当に入っていて、どこをどうにも動かせないため、仕事と言ってはほとんど無いらしい。モモちゃんと言うのは広島で原爆を受け、親兄弟全部を取られ、自分だけは助かったが、眼が見えなくなった。十六か七になったろうが、原子病の跡が残っているためか、まだ実が入らない花のクキのように見える。いつもニコニコと快活な子だ。四階の塔に登るのが好きで、そこで笛を吹く。もと浮山さんが吹いたと言う、銀製の横笛で、昔たしかミン笛とか言った奴をもう少し複雑にしたもので、あれでやっぱりフルートか。
 以上八人、私をこめて九人の人間が、この家に暮している。みんな良い人たちで、お互いの間にゴタゴタや不愉快なことは起きない。一同互いにむつ
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