るコンパクトを抜き出し、ソツと開いて、怖いものを覗くやうにして鏡を見る。チラツと見たつきりで、ハツとして鏡をどけるが、又暫くして覗く。今度は眼を釘付けにされたやうにジーツと鏡の中を見詰めてゐる。……衰へてしまつた容色。……急に四辺をキヨトキヨト見廻して、五郎も小母さんも現はれさうに無いのを見すましてから、手早くパフで白粉を顔にはたく。自分では無意識らしいが、白粉の塗り方が頤や襟に濃く、いつの間にか京子の白粉の塗り方にソツクリになつてゐるのである。……塗り終つて、又鏡を覗く。……少し斜めにしたりしてジツと覗いてゐる間に顔が引歪がんで来る。手が顫えて来る。……声を出さないで自嘲の笑ひ、笑つてゐる間にベソをかいて、タラタラと涙があふれて来る。でも涙を拭くのを忘れて、寝てゐて自然に見える鴨居の辺をジツト睨んで動かない。……出しぬけに手のコンパクトを投げる。それは病室と玄関との間に一枚だけはづさないで立つてゐる襖に当つて、ピシツ! と音を立てゝ落ちる)
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小母 (その音を呼ばれたものと感違ひして)はい、はい、(道具を片付けながら)直ぐ行きまつせ。
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美緒は、その声を聞くと、いきなり白粉を落さうと顔中を掌でゴシゴシと撫でまはす。[#「。」は底本では「。)」]
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小母 (玄関の間へ出て来て)なんぞ、御用どすか、奥さん?
美緒 ……(首を横に振る)
小母 まあまあ、綺麗にならはつた!
美緒 ……(顔を歪めて笑ふ)
小母 少うし、わてがお話ししまほか?
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丁度そこへ玄関の外(奥)に元気の良い靴の音が響いて歩兵伍長の新しい軍服を着た赤井源一郎が勢ひ込んで玄関に飛込んで来る。
端麗な顔に眼鏡をかけ、理智的にとぎすまされた人柄だ。骨組がガツシリしてゐるのと、軍服の強い線と、それから永い勤務で鍛へられたために現在はそんな感じは無いが、平常の生活でこの男を見れば、むしろ弱々しい位に敏感な人間を発見しはしないかと思はれる。喜びに顔を紅潮させてゐる。
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赤井 久我つ! 久我! やつて来たよ! (靴をぬぐ)
小母 (びつくりして振向いて、赤井を見るなり喜んで)まあ兵隊さん、来やはつた! 奥さん、兵隊さん来やはりました。赤井はん、ようおこしやす。さあさ、おあがり。
赤井 は。(と挙手の礼をして)小母さん、暫くでした。(あがる)
小母 (湯殿の方へ向つて)五郎はん、兵隊さん見えはりましたえ!
美緒 ……(今迄の変な顔付きを一遍に笑ひにほころばして、寝台の上から目礼する)ようこそ、赤井さん……。
赤井 いかゞです?……
五郎 (湯殿の戸をガタピシ開けて、走るやうにドタバタ飛び出して来る)来たか! (廊下に出て来た赤井とぶつつかりさうになる。現在の彼にとつては殆んど唯一の気の許せる親友が久しぶりに来たので、うれしさの余り少しあがつてゐる)……よう!
赤井 ……(出合ひがしらに、両足をピシツと揃へて習慣になつてしまつてゐる挙手の礼が出る)来たよ。
五郎 ……(自分も思はず釣り込まれて、絵筆を握つたままの右手を額の所へ持つて行くが、それに気付いて)なあんだ! (二人声を揃へて笑ひ出す)
小母 さあさ、服をお脱ぎやす。暑うおしたろ。(これも笑ひながら、飲物の支度に台所へ)
五郎 アツハハハ。(筆具を湯殿の方へポイと投げ出す)よく来てくれた。三ヶ月ぶりだ。
赤井 そんなになつたかな。なんしろ忙しくつて。
五郎 さうだらうな。飯はまだだろ?
赤井 いや食つて来た。実はもつと早く来る予定でゐたが、今朝になつて不意に非常呼集がありやがつてね。
美緒 とにかく、お脱ぎになつたら――?
五郎 さうだ、脱げよ。……(赤井が帯剣をはづしにかゝる。その赤井の服装にフイと注意して)今日は馬鹿に立派な服だね、真新しいぢやないか?
赤井 立派だらう? 第一装用さ。これで持つ物を持ちや、いつでも出発出来るさ。
五郎 え? ……そいぢや、いよいよ、近い内に――?
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男二人がいろいろな意味を込めて眼を見合はせてゐる短い間。
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赤井 ……(微笑して見せ、剣をスラツと抜いて)もうチヤンと刃が附いてゐる。
五郎 (その刃に指先で触つて見ながら、眼は赤井を見てゐる)……さうか……で、何日頃になりさうだい?
赤井 わからんよ俺達にや。わかつても言つちやいかん事になつてゐる。
五郎 すると、なにかね、明日にでも出発と言ふ事だつて有り得るわけか?
赤井 (服を脱ぎながら)うん、まあ、さうだな。よくわからん。たゞ準備はいつでも出来てゐるんだ。ハツハハ、此処にかうしてやつて来るのも今日でおしまひになるらしいよ。君はどうせ、佐倉の方へ来て呉れる暇は無いだらうしなあ。
五郎 いや、そんな時はどんな事が有つても会ひに行くよ。
赤井 いや来てくれても、多分ロクに話も出来ないだらうと思ふんだ。最後にもう一度外出できるらしいけど、さてどうなるかわからんしね、仮りに出来てもその際も伊佐子の事やなんかで東京の家の者に会ひに行かなくちやならん。……まあ今日が左様ならだね。
五郎 ……さうか。
赤井 ……美緒さん、どうですか、その後?
五郎 うん、まあ、割に良い方だ。
赤井 そりや、いゝ。さう言へば、なんだか元気さうになりましたよ。
美緒 ……伊佐子さんは、どうして遅いんでせう?
赤井 又家でグズグズ言つてゐるんでせう。なんしろ僕が行つても、伊佐子とはユツクリ話しも出来ないんですからね。そいでまあ、美緒さん病気の所へ御迷惑をかけて済まないけど、かうして此処で落ち合はさうと勝手に決めちやつて。
美緒 いえ、そんな。私なら少しも構ひません、どうか御遠慮なく。
五郎 お前チツト黙つて居れ。
美緒 フフ、あなたの事と言ふと久我は直ぐに焼餅を焼くんですの。
赤井 ハツハハ、いや、どうも済みません。
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そこへ小母さんがビール三四本と、つまみ物を載せた盆を運んで来る。
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小母 さあさ、お二人とも此処へ来てお坐りやす。そこは暑い。(キチンと坐つて赤井に対して辞儀をして)ようおこしやす。
赤井 やあ。小母さん相変らずお元気ですね?
小母 へえ。五郎はん、あんたはんのおいでやすのを、えらい待ちこがれてゐやはつたのどすえ。なあ奥さん! (美緒うなづく)まるで、コイービト待つてる若いし[#「若いし」に傍点]とそつくりや言ふて奥さんと話してゐたとこどす。
赤井 なあんだ、ハツハハ、ハハハハ。
五郎 (これも笑ひながら、ビールのせんを抜きコツプに注いで)さ、赤井、あげてくれ。
赤井 なんだい俺あ飲めないよ。知つてゐるぢやないか。
五郎 いや、今日は飲め。
赤井 だつて、一杯やると俺あフラフラになつちまうぜ。
五郎 いゝから飲め。ホントは美緒にも飲ませたいけど、此奴は病人だからな。……フラフラになつたつていゝよ。小母さんも――(小母さんにもコツプを握らせる)
小母 いえ、わては――
五郎 (小母さんの耳に口を寄せて)赤井がね、小母さん、間もなく戦地へ行くんです。それを送るんですから。
小母 さうだつか! それは――。
五郎 美緒の枕元で、俺あ乾杯したいんだよ。なあ美緒。
赤井 ありがたう。(コツプを握る)美緒さんも、早くよくなつて下さい。石にかじり付いても!
五郎 俺達の前には、ノツピキのならないギリギリ決着の絶壁が有るだけだ。もう、それに死にもの狂ひで乗りかけて行くきりだ……。赤井、戦つて来てくれ。
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三人ビールを乾す。
美緒が涙ぐんで見てゐる。小母さんは涙を流してゐる。しかしそれをビールにむせたやうにごまかしながら指先で拭くが、中々とまらないので、コソコソと立つて居間の方へ去つてしまふ。
あとに、三人がしばらく沈黙に落ちてゐる。
間。
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赤井 ……(シンミリした空気を破らうとしてニコニコして)たちまち少し廻つて来たらしいや。
五郎 いゝよ酔つたつて。六時迄に戻りやいゝんだらう?
赤井 ……でも電車の時間を二時間見とかなきやならんからな。
五郎 すると此処を四時に出りやいゝから、まだタツプリ二時間は有らあ。それまでにや醒めるよ。もつと飲め。(赤井のコツプに注ぎ、自分も飲む)
赤井 ……近頃、どうだい、仕事の方は?
五郎 ……あんまり描かん。そんな気になれない。
赤井 さうだらうなあ。
五郎 いや、病人を控えてゐるせゐやなんかぢや無いよ。もつとなんか、現在の事をよほど考へ直して見なきやならん事が有る様な気がするんだ。今迄通りいくら[#「いくら」は底本では「い ら」]セツセと画を描いても、なんにも解決されない[#「されない」は底本では「されな 」]やうな気がするんだ。いや、今の世の中を否定する気持ぢや無い。うまく言へんけど、……もしかすると俺達は今、なんかすばらしい時代に生きてゐるかもわからんと言ふ様な気がするんだな。
赤井 そりやさうだ。俺もそんな気がする事がある。しかし、それにしても君が画を描かない理由にはならんだらう。
五郎 だからさ、俺にや、画なんか描いてゐると、このすばらしい時代の意義……いや、意義なんてそんな理窟張つたもんぢや無い。姿と言ふか光りと言ふかね、そんなすばらしい物が俺の指の間からこぼれ落ちてしまふやうな気がするんだよ。……もつとも、こんな気がするのは、もしかすると、もともと俺の画がホントに生きた物で無かつたからかも知れん。
赤井 そんな事あ無いよ。君あホンモノの画描きだ。
五郎 お世辞を言ふな、君らしく無いよ。
赤井 お世辞を言つたつて始まらん。近頃僕あ恐ろしく単純になつちやつてるんだ。いよいよ行くと決つた時から、お世辞だとか論理学だとか、そんなものが洗ひざらひ無くなつちやつた。頭の中が子供みたいになつちまつた。
五郎 ぢや、ホントにさう思つてくれるんだな。俺あホンモノの画描きなんだな? きつとさう思ふんだな君は?
赤井 あゝ、思つてる。君あ俺達の仲間の中で一番ホンモノだ。
五郎 ……さうか。……そりやどうでもいゝ。とにかく俺あ、戦争の大砲の音を間近かに聞きながら小説を書いてゐたとか言ふゲーテなんて奴の事はわからんね。わかりたくも無い。ゲーテなんてインチキな男だ。それにズルイよ。ありや政治家で、幸福で、結局自分が直接戦争に参加しなければならぬ危険が無かつたからなんだらう。第一、それは醜態だよ。自分も参加して、たとへば戦闘の行はれてゐる塹壕の中で小説が書いて居れたら、偉いと思ふがね。……とにかく、俺あ、今の瞬間を自分だけ安全だと言ふ気はしないものな。実感だよ。それに俺あまだ人間としても画描きとしても青二才だ。自分の動揺をかくしたくない。動揺する時はした方がいゝんだ。それが生きて行く事ぢや無いか! みつとも無い姿で、あつちへフラフラこつちへフラフラしたつて構ふもんか。それが自分だ。一枚二枚の画を描く事よりや、その方が大事ぢやないか。その内に偉くなりや、動揺なんかしない時が来るかも知れん。そんな事あどうでもいゝ。芸術よりや生きる事の方がズツとすばらしい事だよ。(いくら喋つても何か肝心の事がうまく言へないやうな気がするのである。そのために、明るく幸福な気持のまゝに、少しイライラしてゐる)
赤井 そりやさうだ、動揺をかくしたつて始まらん。実際僕なんかも、もう今では割に平気でゐるけど、白状すると赤紙が来た時は顫へが出て止まらなかつた。怖いのとも違ふ。が、どうしても顫へて顫へて、その一晩どうしても眠れないんだよ。伊佐子に、まあどうして顫へるのと言はれて、どうしたんだか顫へだけは一遍にとまつた。……そんなもんさ。……僕達の若さぢや動揺するのが本当かも知れないね。第一、五六年前までの僕達だつて、今から思ふと一つの動揺であつたと言へば言へる。……あの当時の思想の体系は簡単に僕等の裡ではくづれてしまつた。……しかし、あの当時に掴んだ物の考へ方の中の一番本質的な要素……つまり人間に対する信
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