浮標
三好十郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)終《つい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)戸|開《ひら》かせ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−
[#ここから2字下げ]
時…………現代
所…………千葉市の郊外
人間…………
久我 五郎(洋画家。三十三歳)
美緒(その病妻。三十三歳)
小母さん (四十四歳)
赤井源一郎(五郎の友人。三十歳)
伊佐子(その妻。二十三歳)
お貞 (美緒の母親。五十一歳)
恵子 (美緒の妹。二十八歳)
利男 (美緒の弟。二十六歳)
比企 正文(五郎の友人。医学士、三十七歳)
京子(その妹。二十五歳)
尾崎 謙 (小金貸。三十八歳)
裏天さん (家主の荒物屋。四十八歳)
酔つた男
少年
少女 1
同 2
[#ここで字下げ終わり]
1 家で
[#ここから2字下げ]
海添ひの村の一角に建てられた旧さびれた借家を庭の方から見た所。
上手から下手へ座敷(病室)、三畳の玄関、六畳の居間、その前に廊下、廊下を通つて湯殿、便所の順序で、何の曲もなく一列に細長い平屋。上手は垣根を隔てゝ隣家、下手は便所の角を曲つて裏木戸へ通ずる。庭には二三本の樹とこはれかゝつた藤棚と、少しばかりの草花。
夏の末のよく晴れた正午前。遠い沖の方を通る船の汽笛がボーツと響いて来る。……四辺はジーンとする程静かだ。
美緒が、病室の前の縁側に据ゑられた静臥椅子の上に横になつて、ウツトリしてゐる。中形の浴底の[#「浴底の」はママ]胸にはでな色の大きな経木製の海水帽を抱いてゐる。患つても顔はあまり痩せぬたちで、どちらかと言へばフツクラとして顔色も良いし、チヨツト見には病人のやうには思はれぬが、実は第三期の殆んど重態と言つてよい位の患者である。よごれぬ白足袋を穿き、身だしなみ良く、白い柔かい顔を縫取つてゐる[#「縫取つてゐる」はママ]ユツタリとした束髪。永い間の病苦にさいなまれ尽した末、それに抵抗する事の不可能なことを知つた結果、普通とは反対に、極めて無邪気な幼児の様に柔順な明るい人柄になつてしまつた。時々、自分の眼の前に在るものを透して遠くの物を眺めてゐるような虚脱状態を呈することがある。
……そのまゝで、永い間。
[#ここで字下げ終わり]
小母さんの声 (此処からは見えない台所で)……ふえゝ! まあま、出しぬけにビツクラするぢやないかいな! いつもその通りですなあ、あんたはん! 声も掛けんと、だまあつて入つて来てヌーと突立つておいやす。ホンマに……(あとはハツキリ聞えなくなる。この小母さんは、かなりひどいツンボのために、口の利き様がスツトンキヨウに高調子だ。京都生れだが、中年から大阪や東京や田舎などに移り住んだせゐで、いろいろな言語が混り込んで、不思議な京都弁になつてしまつた。誰か台所口に訪ねて来てゐる声がゴトゴトする。それを相手に喋つてゐるらしい)……アツハハハ、ハハハ、そんな事お言ひやしても、私はツンボーではおまへんで、ハハハ、どれどれ、なにが有るか見せとくなれ。ホウ!
美緒 ……(その方へ耳を澄ましながらニコニコしてゐる)
小母さんの声 ……(ハツキリしないまゝに続いてゐたが、再び聞えはじめる)そないな片意地な事言はゝると、お嫁さんの世話してあげまへんえ! こゝの奥さんの生徒さんには、綺麗な方がターンとお居やすからな、今度めお見舞ひにおいなした時に、あの魚屋さんチヨイとオツな若いし[#「若いし」に傍点]やなと見染めなしたお方が有つても、私、だまつてゝなんにも言つてあげまへんえ! えゝか?
青年の声 (それまでゴトゴト言つてゐたのが、ハツキリする。)小母さんに逢つちや、かなわんのう!
美緒 ……(クスクス笑ひ出してゐる)
小母さんの声 な! そんな、あんたはん見たやうな青年団がケチケチするの、見とむないぜ。青年団は青年団らしくイサギようしなはれや、な! 日本国は今、非常時どすえ! チヤンとすべき時が来れば、チヤンとしますからな! この間、大臣さんもラヂオで、そう言つてはりました……(あとはハツキリしなくなる。尚、互ひに押問答をしてゐるらしい)……
(間)
小母さん (下手を廻つて庭へ出て来ながら、裏木戸の方を振返つて)大丈夫、お嫁さんの事は、私があんじよう世話してあげますよつて、安心しておいなれ。ハツハハハ。(右手に鮮魚の大きいのを一尾ぶら下げてイソイソと美緒の方へ。質素だが、まだ上品な美しさを残してゐる様子が、小母さんと呼ばれるには少しふさはしく無い位の人柄である。京都の旧家の[#「の」に「ママ」の注記]人となつて、その後、種々の不幸に見舞はれ、今、かうして半ば好意から旧い知り合ひの此の家に働きに来てゐる身分である。眼をズルさうに輝かしながら)ヘツヘヘヘ、奥さん、これ、見なはれ!どうや!
美緒 ……(両手の指を全部パツと開いてビツクリした事を示す)
小母 これで今夜のおさいがでけた。三枚におろして、サシミを取つたり残りをおツユにしてあげまつさ。
美緒 ……? (手真似で魚はいくらしたと訊ねる。唖かと思はれる位に手真似の会話に馴れてゐる。絶対安静中は声を出してはいけないと命じられてゐるし、又、此の小母さんに聞える位に大きい声を出すことは彼女には既に困難になつてゐるのだ)
小母 これで八銭どす! 十五銭と言ふたのをチヤツと八銭でまき上げてこましたわ。凄腕どすやろ!
美緒 ……(うれしがつて拍手をして見せる。しかし銭のなかつた事を急に思ひ出して、心配さうに指で丸を作つて見せて、代金はどうしたと訊ねる)……?
小母 へ? アハ(と手を大きく振つて)大丈夫、大丈夫! そないなものミソカでよろし。
美緒 (非常に低い澄んだ声。この時だけで無く彼女の声は始終ひどく低く小さい。高く大きな声はもう出ない)だつて、小母さん、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も払ひが溜つてゐるんぢやなくつて?
小母 (美緒の言葉は耳に入らない)そんなもんミソカでよろしおす。これ位のことグズグズ言ふやうでは、あきうど[#「あきうど」に傍点]冥利に尽きますえ。
美緒 ……(手で小母さんの片方の耳を引つぱつて自分の口の近くへ持つて来て)……だつて、あのね、あの魚屋さんには、もう二ヶ月も溜つてゐるんでせう?
小母 へ? へえ。なあに、二ヶ月位が、なんどす! 三十円や四十円、みんながみんな払はんと逃げ出しても大事おへんわ! それ位の儲けは此の二年の間にチヤーンとさせてありますがな!
美緒 だつて、そんなわけには行かなくつてよ。
小母 奥さんは、そないな心配せんと置きやす。余計な心配おしなすから、五郎はんに年中おこられはる。ええか! お金なんぞ全体なんどす? 有る所へ行けば、いくらでも有りますがな。今に五郎はんがターンと絵を描きはつて、トクマン円でもなんでも儲けて来てくれはりますがな。
美緒 ……(嬉しさうに、しかし同時に寂しさうに微笑んでゐたが、やがて湯殿の方に眼をやる)
小母 クヨクヨしたら、あかん! 奥さんは大々名にならはつた気でソツクリ返つて空でも眺めて暮してゐなはれ。五郎はんはこんな綺麗な海水帽も買うてくれはるし、奥さんが心配なさる事など、なんにもあれしまへん! さうどつしやろ!
美緒 うん……(耳を引つぱつていた手で小母さんの頭を撫でる)
小母 (自分も左手で美緒の腕を撫でゝやりながら)さうどすえ! 威張つてゐなはれや。そしたら、あてが此の弁で以てな、魚屋でも米屋でも、裏天はんでもベラベラとだまくらかして、あんじようしてあげまつさ。向うが、何かウダウダ言ふても、あてはツンボーどすよつてに、なんにも聞こえへんのどつせ。太平楽どす。アハハハ。
美緒 小母さん、ありがたう……。(涙)
小母 なんどす? ……ほらほら、又、泣かはる! それがいかん! 五郎はんおこられはるぜ。コラアツ!(眼をむく)
美緒 ……ハツハハ(こらへてゐたが笑声を出してしまふ)
小母 アツハハハ、かうどすやろ?
美緒 ……(クスクス笑ひつゞける)
小母 ハツハ、さ、お午の支度や。……だが、なんだすなあ、近頃兵隊さんチヨツトもお見えになりまへんな? 兵隊さん見えんと五郎はん、なんやら寂しさうにしてはります。どうぞなさつたかいな? もしやすると、いきなりもう出動なさつてしもたんではないやらうか?
美緒 さうぢやないの、今度の日曜あたり見えるさうよ。東京から伊佐子さんも来るさうだから、此処で赤井さんと落合ふ事になるわ。
小母 どすかいな? でもいくらお上の事でも、それぢや、あんまりではないかいなあ。
美緒 いえ、だから、この日曜には赤井さん御夫婦が来て下さるのよ。
小母 どすかいな? でも日曜日に、東京の御親類の皆さんがお見舞ひなんぞに来て下さるのも、もうよろし! 皆さんがお見えると、後、奥さんがキツトお加減が良う無いのどすさけ。(話がトンチンカンになつてしまふ)
美緒 さうぢや無いの、あのね……(自分の声では話が通じないのでガツカリして、再び小母さんの耳を引つぱりにかゝる)あのね、兵隊さんは、此の日曜に……。
[#ここから2字下げ]
言つてゐる所へ、湯殿のガラス戸が、ガラツと開いて、運動シヤツ一枚にサルマタ、手拭で向ふ鉢巻をした久我五郎が出て来る。一仕事終つた後のホツトした気持で何か旧い外国の民謡を唸るやうな声でハミングしながら。両手はポスターカラアで汚れ、顔や胸から汗がタラタラ流れてゐる。湯殿をアトリエ代用にして絵を描いてゐたのである。しつかりした骨組の男で、善良で神経質らしい顔。たゞ眼の光と、頬のかげが、極めて強い偏執性をたゝへてゐるのが、時に依つて善良さや神経質の感じを裏切つて、非常にしつこい、動物的なシブトさを現はすことがある。栄養不良と絶え間のない心労とのために、肉体も精神もひどく痛めつけられて居り、殆んど、ドタン場に追ひ詰められた野獣の様なあはれな有様だ。しかもそんな自分の状態を美緒に気取られまいための努力が永い間続いて来たために、美緒の眼の前では明るく呑気で平静であり、それだけに、その反動で美緒の居ない場所ではイライラと神経質になり、表情も言語動作も激しく動物的なものに変つてしまふ。その変り方も変り目も彼自身は意識してゐず、全く自然に行はれてゐるが、はたから見てゐると変化があまりはげしい対照をするために、まるで別人を見るやうな感がある。
[#ここで字下げ終わり]
小母 (美緒が湯殿の戸の開いた音でハツとそちらを見るので、その視線を追つて)あゝ、こらいかん! お仕事をすましはつた。
五郎 (廊下をドカドカ歩いて来ながら)こら! また喋つてゐたな!
小母 (首をすくめて、逃げ腰になりながら)奥さんはなんにも言ははらんのどす。私だけが、兵隊さんの噂をしてゐたのどすえ。
五郎 (美緒に)チヨツト油断をしてゐると直ぐにベラベラやり出してゐる。食事前の時間は、喋つてはいけないと、あれだけ言つてゐるのが解らんのか。
美緒 ……(手真似で喋りはしなかつたと打消しながら、子供が叱られたやうに眼をオドオドさせてゐる)
小母 ホンマに、お喋りをして居たのは私だけどすえ。
五郎 (しきりに弁解してゐる小母さんの右手で鮮魚がブラブラしてゐるのを見て)どうしたんです、それ?
小母 生きのえゝ魚どすやろ? 魚屋の若いしから買うたのです。お嫁さんと引つ代へこにな。
五郎 お嫁さん?
小母 ハツハハ。ほい、しもた! 御飯の支度がしつぱなしや! (ごまかして小走りに台所へ去る)
五郎 (それを見送つてゐたが)……ホントに俺の言ふ事を聞かないと、張り倒すよ。
美緒 だつて私、そんなに話はしないんだもの……。
五郎 (遮つて)返事はしなくつていゝ。嘘をつけ。たつた今笑つてゐたぢやないか!
美緒 だつて――。
五郎 返事はしないでいゝと言つたら、馬鹿め。……今お前にとつて食慾と咽喉をチヤンとした状態で保つと言ふ事がどんなに大切かと言ふ
次へ
全20ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング