事は知つてゐるだらう?
美緒 ……(うなづきながら、手拭を持つた手を伸して、立つてゐる五郎の首や胸の汗を拭いてゐる)
五郎 小母さんはお前の気を浮き立たせようと思つて面白い事を喋つて呉れてゐるんだ。それはわかる。小母さんは良い人だ。しかし、蛇の黒焼が一番どつせなぞと言ふ人だもの、科学的には全然無智なんだよ。そこはハツキリ区別してゐないといけない。お前までが小母さんの調子に乗つて安静を破る法は無いんだ。
美緒 ……(クスクス笑ひ出す)
五郎 なんだ!
美緒 ……(五郎のヘソの辺を指す。そこにはポスターカラアのとばつちりがコテコテくつついてゐる)
五郎 (うつむいて見て、苦笑)フフ、今日は少し能率を上げたからな。五枚描いた。好文堂の金庫から一金拾円がとこチヨロマカした次第だ。
美緒 でも湯殿は暑いでしよ?
五郎 なに、あれで丁度いゝんだよ。うん気で以てカーツと頭へ来た所で描きまくる。
[#ここから2字下げ]
そこへ、今度は居間を通つて小母さんが用意の出来た大型の膳を運んで来る。
[#ここで字下げ終わり]
小母 へい、御馳走どすえ! そこであがりまつか、庭へ出まつか?
五郎 こりや甘味さうだ。ホーレン草がよく有つたなあ。どうする庭へ出るかい?
美緒 ……(コツクリをする)
五郎 小母さん、すみませんが椅子の方を――(と美緒の肩と両脚の下に手を入れて、ソーツと抱きかゝへる。小母さんは椅子をかゝへて、庭の樹の下へ運んで日蔭に据ゑる)
美緒 ……(海水帽を指して)あれを――。
五郎 いゝぢやないか、陽は当らないよ。
美緒 うゝん、かぶるの。……かぶるのよ!
五郎 しようが無えなあ。小母さん、それ取つて。
小母 へ? へいへい、奥さんの大事な大事なシヤツポや。(取つてかぶせてやる)これ、かぶらはると飛んだ別嬪はんに見えまつせ。
五郎 (庭へ下りて、美緒の身体を動揺させぬ様に運んで行きながら)そら!
美緒 ……(帽子の下でニコニコしながら)軽くなつた? 重くなつた?
五郎 さうだなあ。昨日よりも八匁だけ重くなつた……。(ムツと怒つたやうな顔になつてゐる。美緒の身体がひどく軽いのには、馴れつこにはなつてゐても、その度に何かドキリとする気持を押しかくすのに努力を要するのである)やれ、どつこいしよ!(美緒を椅子の上に静かに臥せ、腰から下を毛布でくるんでやる)
美緒 ……きれいな空! (シミジミと空に見入る)
五郎 (近くの椅子代りの石油箱を引きずつて来て腰をかけながら)あんまり仰向くとクシヤミが出るぞ。(小母さんが縁側から運んで来た膳を自分の膝の上に受取る)……今日は僕が食はせますから、小母さん先きにやつて下さい。
小母 でも、あんたはん、お疲れどす。
五郎 なあに、小母さんこそ腹が減つたでせう。僕あ、まだあんまり空かんから。ユツクリ食べて下さい。
小母 さうどすか? ぢやま、お先きにいたゞきま。又、喧嘩せんやうに、仲良う、ターンとおあがりやす。(笑ひながら台所へ去る)
五郎 寒くは無いか? もう少しくるんでやらうか?
美緒 ……なんて良い人でせうね、小母さんは。
五郎 良過ぎる。……だから、あゝして不仕合せだ。(食物をスプーンや箸で美緒の口へ持つて行つて養つてやりながら)
美緒 (食物をユツクリ噛みながら)私はさうは思はないわ。小母さんは結局、一番幸福な人よ。
五郎 ……お前をシンから好いてくれてゐるんだね。こないだ、お前のタンが詰つた時、いきなり口をつけて吸ひ出してくれたにや驚いた。伝染するなんてまるで考へてゐない。ありがたいけど少しありがた迷惑だ。止めようと思つても止める暇もありやしないものな。……自分の娘みたいな気になつちやつてるんだな。
美緒 娘以上よ。……私なんぞ、小母さんが居てくれなからうもんなら、トツクの昔に死んぢまつてるわ。
五郎 ……へん。お前より、俺の方が先きに死んぢやつてら。
美緒 ……(五郎の顔をマ[#「マ」に「ママ」の注記]ヂマヂ見守つてゐる)……ホントにあなたも、少し休養して頂戴な。痩せたわ。
五郎 俺は少し痩せて良い男になるつもりだ。蓮池あたりの娘さんや後家さん連中を少し唸らしてやる。
美緒 どうぞ。
五郎 お前は本当にしないが、これで仲々もてるんだぞ。二三日前も市場の角でタマネギを買つたら、あすこの娘さんがリユツクサツクの中に一つだけ余分に入れて呉れた。奥様がお悪くつちや、お大変ですわねえと言ふんだ。ホロリズムは利いてゐる。あれは、もう一押しで物になるね。
美緒 御遠慮なく、押してね。……でもどんな娘?
五郎 それ見ろ。べつぴんだぞ。惜しいことに、少しビツコでね。
美緒 フフフ……。(笑いながら軽く咳く)
五郎 そらそら、もう黙つて。……噛みやうが、まだ足りない。フレツチヤリズム、フレツチヤリズム。呑み込まうと思ふからいけない。自然にノドに流れ込むまで噛むんだ。そら今度はハムだ。
美緒 ……頤が、だるい。
五郎 口を利くな。生きてるんだから、頤ぐらゐだるいよ。……一切れのハムを十度噛めば十カロリー、百度噛めば一万カロリーだ。……一万は少し多過ぎるかな。いづれにしても、等比級数的に栄養は増すんだ。……医者の薬はあまり効かず候。小生の病気に最も有効なる療法は、うまい物を噛みに噛んで貪り食ふ事にて御座候。あまり噛むせゐか、近頃にてはどの歯もどの歯も欠け落ちて口中満足なる歯は一本も無き程に候。……子規居士に俺は賛成だな。……お前なんか、歯は全部満足にそろつてゐる。大したもんぢやないか。(養つてやりながら、美緒が噛んでゐる間を、退屈させまいとポツリポツリと話しつゞける)……なんだ、今のは、せいぜい三十度位だつたぜ。
美緒 ……(せつせと噛み込んでゐたが、息苦しくなつてハアハア言ひながら)……チヨツト、ストツプ。
五郎 苦しいのか? ……室の中で食つた方がよかつたかな。空気が少し荒い。……(美緒が首を横に振る)……タンか? (美緒がコツクリをする。五郎、チリ紙を出して、美緒の口に附けてソツと取つてやる)……一分間の休憩、チエツ、まけてやらあ……(言葉とは反対に眼はジツト注意して病人の様子を見てゐる……間)
美緒 ……(少し楽になつて)いやんなつちやうな。
五郎 なにが?
美緒 だつてさ、あんまり噛んでると、食べ物みんな、口ん中でうんこになつてしまやしないかな。
五郎 バ、バ、馬鹿な! 馬鹿を言ふな。
美緒 でもヒヨツとそんな気がする事があつてよ。口ん中が黄色くなるやうな気がするの。そしたらもう駄目。
五郎 さう言へば、小さい時そんな話を聞いた様な気がする。或る所に馬鹿がゐたが、それが食事のたびにシキリと何か考へ込んでゐる。その内に時々ヒヨイと居なくなるから、どうするかと思つて付いて行つて見たら、椀のメシを便所へ持つて行つてほ[#「ほ」に「ママ」の注記]うり込んでゐるんださうだ。……どうせしまひにはさうなるんだから、食べて身体を通すだけ無駄な手間だと言ふんださうだ。……お前も段々その馬鹿に似て来たわけだ。
美緒 えゝ、どうせ私は馬鹿よ。……だからかうして、あなたの仕事を一寸きざみに食ひつぶしてゐるんだわ。
五郎 なんの話だい?
美緒 ……あのね。……私、こんなに御馳走を食べなくつたつてヘイチヤラだから、時々はあなたホントの絵を描いてよ。
五郎 又はじめた。……子供の絵はホントの絵ぢやないのか? ……そりや、描けば金になるから俺あ描いてゐる。それでいゝぢや無いか。……しかしそれだけぢや無い、美しい絵を描いてそれが絵本になれば、日本中の子供がそれを見るよ。……金儲けだからヤツツケ仕事をする気は無いんだ。又、そんな事は俺にはとても出来ない事はお前も知つてゐる筈だ。俺あこれでも本気で描いてゐるんだ。
美緒 ……知つてるわ。だけど……だから、ホンの一月に一枚でもいゝから、油で制作をして欲しいの。
五郎 ……純粋絵画の価値に就て、俺あ疑ひを持ちはじめてゐるから駄目だね。美とは全体なんだい? ……描けば描けるよ。しかしそいつを、誰が何処で見るんだい? 詰らんよ。そんな時代ぢや無い。
美緒 ……うん……だけど、私が見たいのよ。あなたがコツテリと油で描いた風景かなんかを、私が見たいの。それならいゝでしよ。
五郎 お前が見たいんなら描く。その内に描いてやらあ。……だが、お前の言つてゐるのは嘘だ。俺に制作をさせたいために、わざとそんな事を言つてゐるんだ。
美緒 ……だつて、あなたは、天才だと言はれた画描きよ。……私もさう思つてゐるわ。
五郎 それ見ろ、それがお前の本音だ。……お前なんかに何がわかるもんか、天才なんてナンセンスだよ。世の中に天才なんて有るもんぢや無い。ありや形容詞だ。
美緒 ぢや、唯の才能と言つてもいゝわ。それをあなたは殺さうとしてゐるのよ……。
五郎 へん、そのセリフの一番最後にお前が言はうとして言はなかつたセリフを俺が言つてやらうか? 「私のために」と言ふんだ。へつ、しよつてらあ。お前なんぞのために、誰がどんなものでも殺すものか。亭主に犠牲を払はせてゐると思ひ、それを済まない済まないと思つてゐる事で以て、二重に良い気持でゐる病身の妻。……そんな気の良い役を自分だけで取らうというのはチツと虫が良過ぎるよ。もう今では、天才や才能なんかは死なゝきやいかんのだ。しかしそれは細君の病気の中やなんかで死ぬんぢやなくつて、今の時代の中でだ。そんな物はみんなぶち殺して、人民の中に叩き込まなきやならんのだ。叩き込んで、もう一度鋳直さなきやならんのだ。……今、日本は戦争をしてゐるんだぜ。
美緒 ……この近くだけでも、もう二人出征した人があるわね?……すまないと思ふ……それに何だか考へるたんびに、怖くなつて、私、身内が顫へ出して来るわ。
五郎 ……お前も戦争をしてゐるんだ。お前もぢやなくつて、お前が戦争してゐるんだ。他人の事ぢやない。顫へ出すなんかと言つて、自分だけは病人だから責任は負はないでいゝなどと思つてゐると大変な量見違ひだぞ。まして、食物を噛むのがいやだなんて、怪しからんよ。クソになつたつて石になつたつてなんだい。……さ、食べよう。(再び食物をスプーンで養つてやりはじめる)
美緒 ……(黙つて噛みながら涙ぐんでゐる)
五郎 (それを、わざと無視して)……そら、ホーレン草。……あゝ、この土曜に目黒診療所の比企さんがやつて来るさうだよ。今朝手紙が来た。……日曜には赤井達が来るし、利男君も来るだらうし、賑やかになる。
美緒 ……比企先生?……さう?
五郎 なんでそんな変な顔をするんだ? いやか?
美緒 うゝん。だけど……あんた手紙を出したの?
五郎 うん、こないだ。あんまり御無沙汰してゐたからね。
美緒 ……私の身体、又、そんなに悪くなつた?
五郎 なんだい? なにを言つてゐるんだ! 俺が来てくれと言つてやつたわけぢや無いぜ。向うで避暑に来たいと言ふんだ。
美緒 だつてあなた、今頃になつて、避暑なんて、変ぢやないの?
五郎 邪推するのもいゝ加減にしないか。診療所が忙しくつて、みんなのキマリの休暇が今迄遅れてゐたのが、やつと土曜から三四日取れたから見舞ひかたがた行きたいと言ふんだよ。お前の病気に医者を呼ぶ必要が起きたら、そんな卑怯な真似を俺がするか。現に比企さんの妹も一緒に泳ぎに行くからと言つて来てゐる。
美緒 ……京子さんは、声楽の方はまだなすつてゐるのかしら?
五郎 さうらしいね。
美緒 ……そいで、夜具はどうするの? 二組なんて内には無くつてよ。
五郎 いや、此処は駄目だよ。そこの臨海亭にでも泊つてもらうさ。先方でもそんな積りらしい。
美緒 ぢや前もつて臨海亭に頼んで置かないと……。
五郎 なに、もう客は無いから大丈夫だよ。……でも、とにかく後で、さう言つとこう。
美緒 (噛みながら)……御飯すんだら、又、万葉集読んでね。
五郎 でもお前、俺の解釈を笑ふぢやないか。
美緒 ……だつて、をかしいんだもの。……でも万葉の歌と言ふのは、好きだ。……私にだつて解るわ。……歌なんて私には解らないと思つてゐたけど、この頃、わかるやうな気がする
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