。……聞いてると、とてもいゝ気持よ。
五郎 ぢや、後で読んでやる。……万葉こそは俺達の故郷だと言ふ気がするな。……どうだ寝てる間に全部あげて、病気が治つた時は万葉学者になつちまうか? ハハ、ところが、その歌の解釈が全部まちがつてゐたつてね。なあに、それでもいゝんだよ。古典には色々の解釈が有つていゝわけさ、ハハハハ。
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 玄関の奥(入口)に二個の人影が立ち、その中の一人はズカズカあがつて来る。これは美緒の母親で、大変上品で立派な顔形と、それと激しい対照をなすひどく粗野な表情動作を持つてゐる。他の一人は、あがらないで、一度下手奥へ消へて、下手から庭伝ひに出て来る。母に従つて東京から見舞ひに来た美緒の妹の恵子。母親にも姉にも似ない線の鋭い尖つた顔を、ドーラン化粧で塗り上げ、よく伸びた身体に表現派模様を藍で染め上げた着物に草履。
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恵子 (姉夫婦から少し離れた所に立つて)……やつて来たわ姉さん。どう、具合は? (美緒はニツコリしてうなづいて見せる)
五郎 やあ、いらつしやい。遠い所を、どうも――
小母 (居間で母親と挨拶を交してゐる)これは、これはようおこしやす。(母親も何か言つてゐるが此処からハツキリ聞えない)
恵子 すばらしい食堂ぢやないの。これならウンと食べられるでせう。(シガレツトを取出してセカセカと吹かす。此の女は肺病の伝染を極度に恐れるために、此処に滅多に見舞ひに来ないし、稀れにやつてきても家の中へはあがらうとせず、姉からズツと離れて庭先に掛けて欲しくも無い煙草を引つきりなしにスパスパとふかしてゐる。今もそれである。美緒も五郎もそれに気付いてゐるので強ひてあがれとすゝめもしない。美緒は肉身の者達からこんな風に扱はれる事には馴れてしまつて、一々反感を感ずる事は無くなり、たゞ遠い所に住んでゐる人を見るやうな冷静な無関心な微笑を浮べて黙つてゐるばかりである。五郎の方は、それに気付いて不快に思ひつゝ、しかしその不快さを表に出すとそれが美緒に反射して苦しませる事を恐れて、複雑に気を使つてゐる)
五郎 先日は利ちやんにあんなに沢山バタをことづけて下さつて、すみませんでした。ズーツとあれで間に合つてゐますよ。此処ぢや、あんな良い奴は手に入りません。(美緒に養つてやりながら)
恵子 どういたしまして。雪印と言ふのが近頃みんな外国へ行つてしまふとかで、捜してもなかなか無いのよ。亀屋に二つ三つあつた中から、ヤツと分けて貰つたんですの。無くなつたら又送つてあげるから、姉さんウンと食べるといゝわ。
美緒 ありがたう。……でもそんなに送つてくれなくともいゝのよ。ちつとも不自由はしてゐないから。
五郎 津村さん御元気ですか?
恵子 えゝ、なんですか会社の方が、又役が一つふえたもんだから、とても忙しがつて。一度あがらなくちやと言ひ暮してゐるんだけど、つい失礼しちやつてて。よろしくと言つてゐました。
美緒 又着物こさへたのね。……変つてて綺麗だこと。
恵子 さう? 姉さんに及第すりや大したもんね。お友達と一緒に下絵を選んでわざわざ染めさせたの。物が何だか判らない所がミソなの。チヨツト大した物みたいでしよ。実は安物よ。津村はケチで駄目。
小母 (盆に茶椀を載せて持つて来て恵子に)ようおこしやす。どうぞ――。
恵子 小母さん、いつも大変ですわね。
小母 へえ、今日も良いお天気で。天気がえゝと奥さん此処で御飯あがれますので、気分良うて、助かります。お茶を一つ。
恵子 どうぞお構ひなく。私、ちつともノドは渇いてゐませんから。
小母 (聞えず、盆を突き付けながら、恵子の姿を眺めまはして)へえ! いつもキレイにしてゐやはりますなあ。
恵子 (盆を避けながら)ありがたう。いゝえ、いゝんですの。たくさん。
美緒 ……(ニコニコしながら)恵ちやん、その茶椀は煮立てゝ消毒してあるから大丈夫よ。おあがんなさい。
五郎 (少しギヨツとして)美緒、お前……何を言ふんだ。
恵子 (バツが悪くて)いえ、そんな積もりぢや無いのよ。タバコ吸つてゐるから。……ぢやいたゞくわ。(と茶椀を取つて暫く持つてゐるが、結局飲まないで話の間に縁に置いてしまふ)……久我さん、画は描いてゐらつしやるの? ソロソロ、展覧会のシーズンですわね?
五郎 え? あゝ、いや、あまり描きませんね。
恵子 さうね、これぢや描けないでせうね。惜しいわ、あなた程の人を。
母親 (室から出て来て、庭におりる。五郎立つて黙つてお辞儀をする)……オヤ、オヤ、まあ、利男は姉さん具合が悪いやうだなんて言つてゐたけど、何を言ふんだらうねえ、まあ。血色も良いし、なんだか此の前よりも太つたやうぢやないか。さうでせう、五郎さん? (恵子と同様に、美緒の傍へは寄りつかうとしない)
五郎 えゝ、いや、利ちやんは、気が早くつてどうも……(返事に困つてゐる)
母親 なに事も気のもんですからねえ。ね、恵子、この前よりも姉さん太つたぢやないか? この分なら、なあに、直ぐによくなりますよ。
美緒 (相変らずの母親の粗雑さにウンザリしながら、仕方なしに)さう、太つたでせう? 今にお母さんより太つて見せるから……(笑はうとするがベソをかいた様になつてしまふ)
母親 熱はどうなのかね? まだ有るの?
五郎 有るにや有りますけど、大した事は無いんです。……(膳を椅子のスソに置き、椀を二つばかり持つて立つて行きながら)僕、おかはりをついで来るぜ。(台所へ去る。そこで小母さんと二人でゴトゴト何かしてゐる)
恵子 (見送つて)五郎さんも大変だわねえ。
母親 さうさ。良くなさるよ。ふだんが偏屈なだけに、なんでもやるとなるとわき目もふらずやる事になるんだねえ。美緒さんも仕合せだよ、ね!
美緒 ……(母や妹にアツサリ夫を褒められるのが気に入らない。あなた方に五郎の事が何がわかるものかと言ふ気がある。冷笑を浮べて)さうかしら?……さうでも無いわ。随分乱暴な時もあつてよ。私が大きな声で喋つたりしてゐると、いきなりガーンと頭をやつつける事があるのよ。フフ。
恵子 だつてそりや、姉さんを大事にしてゐるからぢや無いの?
美緒 ……だつて、真青になつて怒鳴るわよ。
恵子 私なんか、そんなの、うらやましいな。津村なんか何か気に入らない事が有つても、私の事と言ふとニヤニヤニヤニヤしてゐるの、きらひ。五郎さんは画の方の仕事だつて犠牲にしちやつて、かうして姉さんの看病に没頭してゐるんだもの。偉いと思ふわ。さうぢやなくつて? 姉さんは仕合せだわ。こんな――。
美緒 ……(安つぽくベラベラと自分と五郎の事が喋られるのに次第に腹が立つて来て、イライラして来る。イライラしはじめると、彼女はその白い美しい両手の指をチラチラ動かしてハンカチや毛布や着物の襟など、手の届く物を取つたり離したりするのである。……妹の言葉を遮つて、いきなり別の事を言ひはじめる)そいで、今日はお揃ひで、どんな用事で来たの?
恵子 え、用事?……まあ。勿論お見舞ひだわ。母さんが来ると言ふから、私も暫くごぶさたしてゐたし、そいで――。
美緒 さう。……(母に)母さん、国の方の不動産の事でせう?
母親 えゝまあ、それも有つたけど。……利男が何か言つたのかい?
美緒 利ちやんは何も言ひません。……でも母さん此の前にもチヨツトそんな事言つてたし、……此の間から五郎に何度も手紙をよこしたのは、その事なんでせう?
母親 私の手紙をお前も読んだのかえ?
美緒 読みはしないけど。……五郎は手紙が来た事だつて言はないんです。……たゞ私がそんな気がしただけ。
恵子 (若いだけ母よりも敏感で、姉が底の方でかなり昂奮してゐる事を見て取つて)いゝぢやないの、母さん、来るさうさう、姉さんまだ御飯を食べてゐるのに、そんな話は後にしたつて。
母親 えゝ、そりや何も急ぎはしないけどね、キマリを付ける所だけは早くキマリを付けとかないと、利男だつてもう直ぐお嫁を貰はなくちやならない身体だから……。
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 言つてゐる所へ、五郎がお代りの椀と、それに更に新しいお茶の皿を持つて台所から出て来て庭に下り、美緒の傍に来る。
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美緒 そりやさうだわ。だから私――。
五郎 なんだ?……なんの話?
母親 いえね、こないだ中から言つてよこしましたね、名古屋の方の例の――。
五郎 (ハツとして、相手をさへ切つて)いや、それは、後で僕が詳しく伺ひますから、なんですよ、とにかく、美緒が飯を食つちまつて、それから、(美緒に)今度は豚とタマネギだ、うまいぜ。これが先刻のべつぴんの一件さ。アハハ。どうしたい?
美緒 ……(毒々しいやうな眼付きで、母親の方を睨んでゐる)
恵子 ……私達、海岸を歩いて来ようかな。(此の場の空気を取りつくらはうとして立上る)
母親 (鈍感のために他の三人の気持がわからず、却つて皆の調子が変になつたのにキヨトンとして見廻して)どうしたんですよ? 私はたゞ――。
美緒 (眼は母をまだ見詰めながら言葉は妹に)えゝ、さうなさいよ。海岸の方なら、病気が伝染る事は絶対になくつてよ。(神経的に二つ三つクツクツと笑ふ)
恵子 直ぐそんな風に取るのね、姉さん。ひどいわ!
五郎 美緒! (と妻のブルブル動いてゐる左手をグツと圧[#「圧」に「ママ」の注記]へつけて)さ、食へ、うまいぞ。(箸に食物をはさんでやる)
美緒 ……(まだクスクス笑ひながら)ビツコのタマネギね? フ、フ、私もビツコになつたら、どうしよう? (食べる)
母親 ビツコのタマネギとは何の事ですかね?
美緒 (終《つい》にこらへ切れず、低いが鋭い声で)母さん、母さんはいつとき、あつちへ行つてて頂戴!
五郎 ば……(と箸を持つた手でゲンコを作つて、美緒の顔を今にも殴らんばかりに構へる)黙れ! 黙つて食へ、馬鹿! (尚も母を睨まうとする美緒の顔を、手ではさむやうにして自分の方へ向かせる)
母親 なんですよ? ……やつぱり、なんですねえ、病気になると神経が強くなるからねえ。よつぽど気を付けないとねえ……。お医者は近頃なんて言ふの? やつぱりなんぢやないかね、いくら大学病院は有ると言つたつて、やつぱり田舎の大学ですからねえ。東京のお医者に代へた方がよくは無いかしらねえ。……とにかく、こんど良くなつたら、生活が苦しいのに散々無理をして託児所をやつたりするなんてえ物好きはフツツリよすんだね。お前が病気になつたのも、もともとそのセヰなんだから――。
五郎 (美緒にそれを聞かせまいとして)もつと噛むんだよ! 今のは足りなかつた。今度は卵だ。さあ、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、……(続ける)
母親 アツハハハ、卵を噛むのを勘定してやるんですか、まあねえ、ハハ。
美緒 ……(既に自分でも母親に気をとられまいと、歯を食ひしばるやうにして五郎の眼ばかり見て噛みつゞける)
小母 (縁側へ出て来て)……あのう、五郎はん、お客さんどす。(玄関の方を指す。なるほど人影が一つ立つてゐる)
五郎 え? 誰です?
小母 あのう、東京の尾崎さんどすけど。……あがつて貰ひまつか。
五郎 尾崎君。さうか。えゝと……(少し混乱して、考へてゐる)いや、僕がそちらへ行きますから。……さうだな、(玄関へ向つて大きな声で)尾崎さん、やうこそ……此処ぢや汚なくつてなんだから、失敬だけど、海岸の茶店へ行かうか。チヨツト待つてて呉れ。
美緒 金の事でせう? 此処で話して下すつていゝわよ。私、平気。
五郎 なに、いゝんだ。いづれ奴さんの事だ、ビールでも飲むんだらうから、どつちせ、海岸の方がいゝ。……ぢや、沢山食べろ、いゝか。口を利いたらいかん。(心得て庭に下りて来て食膳を受取つた小母の耳元に)小母さん、直ぐに戻つて来ますから頼みます。美緒に口を利かせちや駄目ですよ、いゝですね。
小母 ハツハハ、あても、喋くりはしませんさけ、大丈夫どす。
母親 私が食べさせてやらうかね。(言ふだけで、離れた所に立つたまゝ、手出しはおろか、近寄らうともしない)
美緒 いゝの。小母さ
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