頼と言つたやうなものだな。そいつは、やつぱり無くなつてゐないんだものな。僕あ、兵隊に行つて、そいつを痛感するんだよ。僕がもし兵隊として幾分でも秀れた兵隊だとしたら、そりやみんなそのせゐだよ。事実、僕あ中隊長その他の上官から非常に信頼されてゐる。同じ兵隊仲間や、そいから僕の部下だつて――これでも部下を持つてるさ、伍長殿だからね――どう言ふんだか僕の事を一番信頼してゐるんだよ。自分達が困つてゐる問題は必ず僕の所へ持つて来るし、そいから仲間同志で喧嘩をしてもその決着をつけには必ず僕の所へ来るんだ。自分達の気持を一番よくわかつて呉れる仲間として全然信頼してゐる。不思議な位だよ。はじめは、どうしてだか僕にもわからなかつた。唯単に僕の生れつきの性質の良さと言つたやうなものぢや決して無いんだよ。その内に、ヒヨツと、そいつは若しかすると、今言つた、あの時代に鍛へ上げて来た本質的なもののためぢやないかと思つたんだ。
五郎 さうだ! さうかも知れん。いや、さうだよ。それと言ふのがあの時代を俺達がホントに生きて来たためだ。良かれ悪しかれ生きて来た、そこから一切が生れて来てゐるんだ。あの時代の俺達を批判することなんか、偉い奴等が勝手にやつてくれりやいゝ。そんな事なんか、どうだつてかまはん。大事な事は、嘘も偽りも無く生きて来たと言ふ事なんだ。
赤井 しかしね、久我、君が画を描かない事にや僕あ反対だよ。そりやあ君の気持は判る。判るけれど反対だ。……僕はもう自分の仕事の事なんぞ考へてる余裕は無いし、考へる必要も無い。僕の今迄書いてゐた小説なんか、もうどうでもいゝんだ。しかしそいつは、今こんな風にして立つてゐる僕の事だよ。そして、そいつは僕等にまかして置いてくれりやいゝんだよ。いやいや、どうもうまく言へんけど、僕なんぞ、こんな風になつて何か書かうにも書けなくなつてゐるからこそ、それだから尚、君には画を描いて欲しいんだ。そんな気がする。理窟にしては言へんけど、僕が向うへ行つてゐる間に、君が画を描いてゐる事を想像して居れると、なんか心丈夫な様な気がするんだ。もつとも、いよいよ向うへ行つてガンガンやりはじめたら、君に対して今度は嫉妬を感じるかも知れんけどね。でも今の所、是非描いて欲しいと思ふ。……第一、君は少し自分の考へを頭の中だけで追い詰め過ぎてると僕は思うよ。そいつは、いつも君の悪い癖だ。君は此の瞬間に落着いてゐる事なんか出来ない、自分だけ安全だとは感じないと言つてゐるが、そいつは正直さうだらうけど、だから画は描かんと言ふのは行き過ぎだよ。フラフラしながら描いたらいゝぢやないか。
五郎 そんな事あ無い。今の俺に何が描けるもんか。
赤井 すると全体君は何がしたいんだい? 君は生れつきの画描きだ。それが画を描かないで、何をするんだ?
五郎 俺も戦争に行きたい。
赤井 そら、そんな馬鹿な事を言ふんだ。……行くべき時が来れば否応なしに行かなきやならんのだ。第一君の考へてゐるものと、実際の事との間には殆んど紙一重の違ひだけど、全体を根本的に変へてしまふ違ひが有るんだよ。そいつあ僕が実際に於て経験した事だからハツキリ言へるんだ。十中八九自分が行くものと決めて色々考へてゐた時は、それで全部が整理されて覚悟は出来たと言ふ気がしてゐた。それが、いよいよ行くと決定された瞬間に、全部がもう一度ガラリと変つてしまふんだよ。ホンの紙一重だ。しかしそれが全部を変へてしまふんだよ。そしてそいつは、前以て予想して置くことなんぞ絶対に出来ないんだ。その時をキツカケにして、自分の頭の中も外界の事も以前のまゝでゐながら、どこかガラリと変つてしまふ。うまく言へんけど――。
五郎 わかる! そりや、わかる。絶対だ。そいつが絶対だ。
赤井 もつとも、僕もまだまだ変つて来るだらう。……僕と同じ小隊に前に一度出征した伍長が一人ゐるが、そいつの話で召集された時、出発の時、運送船に乗る時、船中でと、何段にも自分の気持が変つて行くんださうだ。そして向うに上陸した瞬間にはチヤンと国のために生命を投げ出して戦はうと言ふ気になつてゐるんださうだ。さう言つてた。……だから僕もまだ大きな事は言へん。第一僕には戦争と言ふものが全体何だかよく解つてゐないものな。少しは解るやうな気もするが、正直言ふと、そん中に何が有るか、自分でぶつかつて見ないとわからん。だけど今の所では、なんか、非常にサツパリした気持で行ける。ひどく明るい気持だよ。一人の日本人として裸になつてぶつつかつて見ようと言ふ気持だ。嘘ぢやない。今の所嘘ぢやない。だから君も余計な考へ過ぎなんかしないで画を描かなきや、いかん。今言つた紙一重を自分の頭ん中だけで作りあげて、それを跳ね越えようといくらしたつて何になるんだい? 君の言葉で言へば、目下の所、画が君の絶対さ。
五郎 ……(不意にバラバラと涙が[#「涙が」はママ]こぼして泣き出す。泣きながら、二度も三度も頭を下げるやうな事をする)
赤井 ……(その相手を自分も涙ぐんで見詰めてゐたが、やがてわざと少し滑稽に)どうだ描くか、久我先生?
五郎 ……済まん。(又頭を下げて)描く、描く。
[#ここから2字下げ]
この二人の親友の会話を、寝台の上から、静かに、しかし昂揚した愛情で以て見守つてゐる美緒。
短い間。
[#ここで字下げ終わり]
赤井 ……そいからねえ久我、僕の未発表の小説が三つばかり有るんだが、今になると別に発表したくも無いが、でも発表してもいゝ。どつちでも僕あかまはん。どつちにしたつて大して気にならなくなつた。とにかく伊佐子が持つてゐるから、後で、そいつをどうするか、君に一任するから、君が良いと思つた通りにしてくんないか。
五郎 そんな事言ふな。(怒つてゐる)そんな事は俺は聞きたく無い。君が帰つて来てから決めりやいゝんだ。手か足かが無くなつてもいゝから、とにかく帰つて来てから決めろ。
赤井 アツハハハ、いゝよ、いゝよ、怒るなよ。とにかく聞くだけ聞いといてくれ。ハツハハ。そいからね、伊佐子の事もよろしく頼む。実はやつぱり、彼奴の事では家との間がうまく行つてないんだ。やつぱり以前家の女中をしてゐたと言ふ事が、両親はじめ兄弟達の頭から離れないんだ。僕が行つた後は、どうなるかわからん。まさか追ひ出しもすまいが、相当彼奴がひどい目に遭ふ事は覚悟してゐなきやならん。で、どんな事があつても、君が相談に乗つてくれて、君が一番良いと思ふ方法で処置してくれ。伊佐子にもその事は言つてある。こんな状態にゐる君にこんな事頼むのは済まんけれど、ほかに頼む奴はゐないからな。
五郎 ……よし、その事は引受けた。俺あベストを尽すよ。だが多分そんな必要は無いな。伊佐子さんは、なかなか偉い女かも知れんよ。なまじつかな、インテリ風の教養に毒されてゐないだけに単純で、頭の中はハツキリしてゐるからな。
赤井 うん、彼奴はたしかに僕よりは偉いよ。僕が三四年前の蟻地獄みたいな解剖癖から抜け出て、チツトは生きた人間になれたのは彼奴のおかげだからな。動物の様な単純さを持つてゐる……。僕が居なくなつても彼奴は彼奴流にドシドシ生きて行くだらうと言ふ気がする。その点は心配してゐない。しかし又それだから家との事では正面衝突を起して苦しむだらうと思ふんだよ。……うゝん、籍は半年前に入れたから、その点はいゝんだ。だが親父が病身だからね、もし死にでもすると、その後始末、つまり遺産……と言つても大して無いらしいが、そんなこんなでゴタゴタするだらうと思ふんだ。兄弟は多いし、母は気むづかしいし、とても複雑なんだからな。
五郎 よろしい、俺が責任を以て引受けた。大丈夫だ。
赤井 ありがたう。……これでもう心配な事は一つも無いよ。もう一つ飲むかな。今日はどう言ふんだかビールが馬鹿にうまい。
五郎 よし……(と注ぐ)そいで、なにかい、伊佐子さんの生活費やなんかは?
赤井 うん、それは社の方から僕の留守中、月給全額支給して呉れることになつてゐるんだ。
五郎 そいつは、ありがたい。そんな点、君の雑誌は気持がいゝな。もつともそれが当然なんだけど。
美緒 ……伊佐子さん、おそうござんすねえ。もうあと一時間半位しか無いのに。
赤井 もしかすると今日も家を出られないかも知れませんよ。なんしろむづかしい家で……
美緒 でも、いくらなんでも、こんな際に……。
赤井 いゝですよ。話すだけの事はスツカリ話しちまつてあります。それよりも僕あ久我ともつと話したいんですよ。でも、どう言ふのかなあ、あんまり話す事なんか無いなあ。
五郎 俺あ、なんかまだ大事な事を話してないやうな気がするんだが、それがどんな事だか思ひ出せないんだ。かんじんの事が出て来ない。頭がしびれた様になつちやつた。睡眠不足のせゐかな、チエツ!
赤井 ビールのせゐだよ、僕あもうフラフラだ。
赤井 美緒さん、あなたの託児所の方は、その後どうなつてゐるんです?
美緒 えゝ、畑さんやなんかが続けてくれてゐるんですの。その後あそこも――。
五郎 お前黙つてろ、俺が話す。その後あすこも経営難で一時は閉鎖しちやつたりした事があるがね、あれつきりになつたら、美緒なんか、こんな病気にまでなる位に骨を折つて創立した所だしね、あきらめがつかないんで、とてもヤキモキしてゐたんだ。第一、あの近所の貧乏なお神さん達がトタンに困るんで、色々気をもんでゐたら、やつと、あの地域の家庭購買組合の方で引受けてくれたんだ。そいでやつと命がつながつてズーツと続いてゐるが、面白いもんぢやないか、美緒たちの育てた子供達がいつの間にか大きくなつて、こないだも四五人でお見舞ひに来てくれた。それぞれ女工さんになつたり職工になつたりしてゐる子もあるし、驚いたよ。なあ美緒。自分が年を取るのは知らずにゐるもんだねえ。しかもそれが、まだ大人にもなりきらないのに、それぞれシツカリやつてゐるんだ。もつとも、これは託児所で一緒にやつてゐた職業補習学校に来てゐた連中なんだが。一人の男の子は、もつと勉強したいけど家が貧乏で困つてゐるんで家のために働いて行かうか、それとも家を出て勉強しようかと苦しんでゐるし、もう一人の男の子は来年になつたら満洲へ働きに行くんだと言つて仕事の隙に満洲語を習つてゐるし、女の子の中には、自分の出身した補習学校の助手になつて、もう恋愛みたいな事をしてゐる奴もゐる。面白いのは、或る鉄工場に入つてゐる少年でね、そこの自治会に加入して――勿論あまくだりの会だがね――その内部をモツト自分達のものにしなきやいかんと言ふんでグングン活溌に働いてゐる奴なんかがゐるんだよ。そいつの父親もやつぱり職工で、以前城北の方でかなり優秀な男だつた奴だ。その子がそんな風になつたのには、父親の影響も有るにや有らうが、表面なんのつながりも無いんだね。勿論書物を読んでそんな考へになつたのでもない。第一、父親の昔の運動とは、考へ方の基礎が全然違ふんだな。言はゞ一種の全体主義的とでも言へる協同主義みたいなものを目ざしてゐる。まだハツキリしたもんぢや無いが、当人は大真面目なんだ。とにかくそんな小さな子が自分の頭だけで考へた事なんだよ。生活といふか、時代といふか、そんなものが教へてくれたんだな。面白いぢやないか、え? いろんな奴が居るねえ美緒!
美緒 ……(非常に幸福さうにニツコリして見せる)
赤井 さうか、そいつはすばらしいね。良い仕事といふもんは、いつの時代になつたつて、なんか後を残すもんだな。消えてなくなりやしない。美緒さんもうれしいでせうね。
美緒 えゝ。でも、私、かうして寝てゐても、あの子達のことを思ひ出すたんびに、心配になつてしやうが無いんですの。いつまでも小さい子供のやうな気がしてゐるんですのね。
赤井 それでいゝんですよ。それでいゝんですよ。次から次と、頼もしい奴等は生きて行つてくれる。僕あね、久我、近頃急にそんな気がする事があるんだよ。僕が死ぬ。その死んだ後で、この自然やそれから大勢の人々が僕の居なくなつた事なんか知らずに以前通りにヘイチヤラな顔をしてズーツと続いて行くといふ事を考へると、以前はイラ
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