イラしてたまらなかつたけど、近頃そいつが反対に、なんかとても頼もしい気持がするやうになつて来た。
五郎 ……(なんにも言へない)
美緒 ……私も、もう一度、生れ変るかなんかして、どんな事をやるかと言ふと、又過労のためにこんな病気になる事がハツキリわかつてゐても、又託児所をやります。……そんな気がするんですの。
五郎 ば、ば、馬鹿な! そんな――こら! お前達! たまるか! いや、さうして見ろ、そんな元気があつたら、それもいゝだらう! ただ、死んだらいかん! 死なれてたまるかい! (睡眠不足とビールの酔ひと昂奮のために、美緒を見たり赤井を見たりして言ふ)な、赤井! そんな、そんな、野狐禅の坊主の言ふやうな事は俺は嫌ひだよ! 美緒、阿呆だ、そんなおめえ――
赤井 アツハハハ、ハハハ(これも酔つて真赤になつてゐる)怒るな! 怒るな! 話をしてゐるんだ。ハツハハハ。
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この時玄関に、美緒の弟の利男と、赤井の妻の伊佐子が連れ立つて入つて来る。利男は背広姿で、少し軽佻で落着きに欠けてゐるが、善良さうな男である。言語動作に学生風が抜け切らない。伊佐子は、簡単な洋服姿に、フロシキ包みを下げてゐる。ガツシリした直線的な身体に、思ひ切つて明瞭な感じの美しい顔。素朴な人柄の中に永らく他家の女中をしてゐた者の習慣的な卑下の態度がまだ抜けてゐないし、それに今日は出征する夫に会ひに来たせゐか、稍々おびえた様な顔つきが時々覗く。
[#ここで字下げ終わり]
利男 今日は。
五郎 ……あゝ利ちやんか。伊佐子さんも来ましたね。ようこそ、赤井はもうトツクに来てゐますよ。(伊佐子、無言で辞儀をする)さあさ。……
利男 (あがつて来ながら)電車が丁度同じでしてね。どつかで逢つたやうなと思つてゐたら此処でいつかお目にかかつてゐたんだ。……姉さん、どう、具合は? (美緒うなづいて見せる)もつと早く来ようと思つてゐたけど、又お母さんに話しかけられちやつて。なあに、例のお嫁の話さ。いやんなつちまわあ。ハツハハハ、これ、おみやげ。(と菓子の包みを姉の枕元に置く)
美緒 ありがたう。
伊佐子 (あがつて片隅に坐つてモヂモヂしてゐたが、キチンとお辞儀をして)暫くでございました。奥さん、その後いかゞでゐらつしやいますの?
五郎 いゝんです、いゝんです。挨拶なんか抜きにして下さい。赤井は随分待つてゐたんですよ。
利男 (赤井に辞儀をして)……今度いよいよ、なんですつてね。電車の中で伺ひました。
赤井 やあ。後の事はどうかよろしくお頼みしますよ。
利男 そいで、御出発はいつなんですか? どの方面ですか? やつぱり北支でせうね?
赤井 ハツキリわかりません。いづれ、そこいらだらうとは思つてゐるけど。(小母さんが一同に茶を運んで来る。小母さんと伊佐子は辞儀を交す)
利男 どうかしつかりやつて来て下さい。僕なども今に来るだらうと思つてゐますけど、なんでせうか、補充兵といふのは、入隊してからどの位の間教育してから現地へ行くんでせうか? 大学で軍事訓練の方はやつて来てゐるんですけど、ウワの空でやつたもんですから、どうも身体に自信が無くつて。こんな事ならもつとマジメにやつとくんでしたよ。ビシビシやるんださうですね?
赤井 (苦笑しながら)補充兵の教育期間もいろいろで、一定してゐないやうですね。一時随分気合ひをかけられて辛らかつたさうだけど、現在はそれ程でもないでせう。
利男 なんですか、痔が悪いと、はねられるさうですけど、僕も少し痔の気があるんで……。もつとも大した事はありませんけどね。
美緒 利ちやん、あんたばかりそんなにベラベラ喋るもんぢや無くつてよ。
利男 なんだよ?
美緒 いえ、伊佐子さんも見えてゐるんだから――。
赤井 なに、いゝんですよ。ハハハ、(伊佐子に)又、家でグズグズ言つたんだらう?
伊佐子 えゝ、……いゝえ。……あのう、これ、こちらの奥さんにハムを少し、それからあなたの冬のシヤツを二枚。……そいから、欲しがつてゐたライタアと、固型ガソリン。ガソリンは随分捜したの……(フロシキ包みを差し出したまゝ、おびえた様な顔をして、しかし目を大きく開いて、赤井の顔をジーツと見詰めてゐる)
赤井 さうか、ありがたう。……どうしたんだ?
伊佐子 ……(石の様に夫を見詰める)
利男 ……なあんだい姉さん、元気さうぢやないか。お母さんや恵子姉さんが、なんだか大分悪さうだと言ふもんだから、心配しちやつたよ。この間お母さんや恵子姉さんやつて来た時に、なんか有つたんだつて? だもんだから僕あ――。
赤井 (聞きとがめて)え? なんか有つたんですか?
美緒 いえ、なんでもありませんの。(利男に)相変らずね、お母さんは、ホンのチヨツトやつて来ただけで、私をよく見もしないで、直ぐにそんな風に言ふのよ。
赤井 (美緒のために心配して、五郎を見て)具合が悪かつたんぢやないか? かうしてゐるの良くないんぢやないか?
五郎 うゝん、いゝんだ、いゝんだ。なんでも無いんだ。利ちやん、お母さんは直ぐに大袈裟に言ふんだよ。
利男 でも、とにかく、あれで姉さんの事を心配してゐる事は本気で心配してゐるんだからなあ。
五郎 そりや、さうだ。そりや、さうだ。たゞね――。
美緒 (イライラしてゐる)利ちやん、あんた、少し浜の方を散歩でもして来たらどう?
利男 うん、さうしようかな。勤めてゐて久しぶりに外に出て来ると、なんかしらん、気が立つてね。ハツハハ、海でも見て来るかな。赤井さんも行きませんか?
美緒 いえ、赤井さん達には色々お話が有るだらうから――。
利男 あのね、姉さん、僕の事で此の前お母さん何か話してゐなかつた? いや、目下、その、候補者が二人有るんだよ。僕あまだ月給四十五円しか取つてゐないし、そんな話は未だ早いと言ふんだけど、お母さんは、そんな事あ無いと言つて肯かないんだ。そいで――。
美緒 (苦笑して)後で聞かせて貰ふわ、後でね。比企さんの京子さんも見えてゐるわ。
利男 え、京子さんが? さう、一人で?
五郎 いや、兄さんと一緒だよ。今、浜で泳いでゐる筈だ。
美緒 利ちやんも泳いで来たら、どう?
赤井 いや、僕等の事なら、どうぞ、御遠慮なく。かまひませんよ美緒さん。
利男 (やつと少し姉の気持が分つて)[#「分つて)」は底本では「分つて」]……ぢや僕、チヨツト行つて来るかな。泳ぐのも久しぶりだなあ。水着は此の前のが有つたね。……ぢや又あとで。(台所の方へドンドン去る)
赤井 相変らず元気だな。
五郎 (苦笑)なんしろ勤めはきまつたし、面白くつて仕様がない時代なんだね。でも性質は無類に良いんだ。これの肉身の中で、あの男だけは飛び抜けて善良なんだよ。……伊佐子さん。わざわざおみやげを済みません。いよいよ赤井が行くとなると、あなたも大変だ。
伊佐子 はあ。……(眼はやつぱり赤井を見てゐる)
赤井 なあに平気だね? あとの事は久我君にみんな頼んどいたから。家の者が少し位変な態度を見せたつて、知らん顔してりやいゝんだ。
伊佐子 (今迄固くなつてゐたのが、フツと自由な気持になつてニツコリして)あなた、顔が真赤だわ。
赤井 ひどく飲まされた。ハツハハハ。
伊佐子 あのね……(と何か言ひ澱んでゐたかと思ふと不意にシクシクと泣き出す)
赤井 (びつくりして)なんだ、どうしたんだ? ……どうした?
伊佐子 (二つ三つ声を出して泣く)……私、どうしたら、いゝんだらう? あなたの居ない時に生れちやつたら、どうしよう?
赤井 なんだつて?……生れる?
伊佐子 さうぢや無いかと思ふの。……私、ホンの此の間まで、気が附かなかつたの。でも、もしかすると、さうぢや無いかと思ふの。……家の姉さんに聞いたら、多分さうだつておつしやるの……。
赤井 さうか。でも、なにか、医者に診て貰ふとか、なんとか……?
伊佐子 姉さんは、医者に見せるまでも無いんだつて。……そいで私、どうしようかと思つて――。
五郎 さうですか。いや、なあんだ! それでいゝ、それでいゝんだ。どうしようかなんて思ふ必要はありませんよ。なあんだ伊佐子さんも少し馬鹿だ。いゝじやありませんか、それでいゝんだ。俺がゐるからいゝんだ。
赤井 ……僕の子が生れる。……さうか。
五郎 いゝんだ、いゝんだ! それでいゝんだ!
赤井 ……久我、ひとつ、よろしく頼む!
五郎 大丈夫だ。俺が引受けた。
美緒 伊佐子さん、お目出度う。
伊佐子 まあ……(両手で顔をかくしてゐる)
赤井 (うれしさを隠しきれず、でもテレて顔を掻きながら)……こんな、今頃になつて出しぬけに、どうも――。
五郎 いゝぢやないか。赤井、もう一つ飲め。伊佐子さんも一つ飲みなさい。(ビールを注ぐ)
美緒 伊佐子さんは飲んぢやいけないわ。
五郎 え?……あ、さうか。ぢや赤井、お前飲め。
赤井 でも俺あもう先刻からグラグラして、ひどく睡くなつて来ちやつた。(飲む)
五郎 いゝぢやないか。眠くなつたら寝たらいゝ。時間が来ればチヤンと起してやる。
美緒 (しばらく前から何かひどくイライラしてゐる)さう、ホントにお眠りになつたらいゝわ。あなたは、少し散歩して来なさいよ。
五郎 俺か? いや、俺あもつと赤井と話が有るんだ。
美緒 だつて……そんな事になれば、伊佐子さんも、もつと何かお話があるでせうし、あなたホントに浜へチヨツト行つて来るといゝわ。
五郎 浜へなんか行きたく無い。伊佐子さん話があればすればいゝぢやないか。どんな話だつて俺達の前でしてくれていゝよ、なあ赤井。
赤井 うん。なんかもつと話して置きたい事が有つたんだが、――いや君にだよ、――どうも、うまく言へなくつて。そこへ持つて来て、今の話で、スツカリどうも毒気を抜かれちまつた。ハツハハハハ。
伊佐子 (明るい自然な嬉しさうな顔になつてゐる)だつて、あなた。……(笑つて)でも、ホントにあなた真赤よ。うでだこみたい。それで聯隊へ帰つたら叱られやしない?
美緒 ですからホントにあつちの居間の方でいつとき横におなんなさいよ。なんなら小母さんにチヨツト毛布でも出して貰ひますから。(五郎に)ねえ、お願ひだから、あなた散歩して来て頂戴よ! (語気が強い。先程から顔を紅潮させて、イライラしてゐるのである)ね! もうあと一時間しか無いのよ!
五郎 だから俺あもつと赤井と話がしたいんだと言つたら! お前、なんでそんな風に言ふんだ? (少し怒つてゐる)
美緒 ですからさ! だから――(伊佐子に)伊佐子さん、ホントに御遠慮はいりませんから、あちらへ、どうぞ! それぢや赤井さん佐倉へは帰れませんわ! 居間の押入れに毛布がありますから。小母さんは、たしか買出しに行つたやうですから、どうか御遠慮なく。ホントに! 横になつてユツクリなすつて!
伊佐子 はあ、でも(モヂモヂしてゐる)
赤井 (びつくりして不安な眼で見ながら)……いゝですよ、そんな。寝たきや、勝手に寝ますから、そんな……。
美緒 どうぞ、ホントに……(涙声になつてゐる)
五郎 (美緒の昂奮のしかたが、あまり異様なのでドキンとして)美緒、お前、どうしたんだ? 真赤ぢやないか。(と額に掌を当てゝ熱を計る) なんでそんなに……?
美緒 (その五郎の掌を振り払つて)いゝのよ! ホントに浜へでも散歩に行つて! ね!
五郎 行けと言やあ行くけど、……なにをそんなに気を立てるんだ。どうしたんだ?
美緒 どうもしない! 気分が悪いんぢや無いの。だからさ!……(泣き出してしまふ)
五郎 ……? (不安さうに、どうしていゝかわからず美緒を見詰めてゐる。赤井夫妻も心配さうに美緒を見守つて困つてゐる)
4 浜で
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2と同じ場所。
砂丘の上にも、波打際にも人影は見えない。
砂丘の中腹の草の上に、比企の脱ぎ捨てた浴衣が置いてある。
その上の草の中から聞えて来るアルトの Torna A Surriento(G. B. de. Curtis)「ソレントへ帰れ」
唄声はその辺一体に流れ漂うてゐる。
京子が砂丘に寝て歌つてゐるの
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