下げ]
間。
 五郎何とも答へられないで、美緒の顔を見守つてゐる。美緒も、五郎から眼を離さない。殆んど憎しみを込めたとも言へる位の睨み合ひである。
[#ここで字下げ終わり]
五郎 ……(咽喉がカスカスになつた様な声で)在る。
美緒 ……ほんと?
五郎 お前は俺の神様だ。……お前が育てゝ大きくしてやつた託児所の子供達は、お前の神様だ。
美緒 そんな事ぢや無いの。……私の言つてるのはね、……死んでから……死んだ後に……そんな世界が在る? 居るの?
五郎 さうか。そんな事をお前……(二三度喘いだ末に)居るよ。在る!
美緒 だつてあなた唯物論者ぢやなくつて?
五郎 ……。なんか知らんが、在ると思ふから仕方が無い。
美緒 ……ああ。(疲れてガツカリして)……あなたオデコから汗を流してゐるわ。
五郎 (やつとホツとして)お前だつて汗を出してるぞ。……ああ、注射だ注射だ。忘れるとこだつた。ハツハハ、はぐらかしちまはうと思つて、宗教問題に引つかけたな?
美緒 (涙ぐんでゐる)フフフフ。さうかも知れないわ。だつて痛いんだもの。
五郎 駄目だと言つたら駄目だ。
美緒 かんにんして! その薬だけはホントに痛いの。ほかのと違つて、いつまでも吸収しないんだもの。……もう止まつたんだから大丈夫だわ。かんにんして。
五郎 我慢しろ。頼むから。
美緒 ……そいぢや、私の頼みも聞いてくれる?
五郎 うん、どんな事でも聞く。
美緒 約束したのよ。……(言つて腕を出す)
五郎 よしよし……(アルコールでチヨツト拭いてから注射針を刺す。馴れてゐる)動かないで……。
美緒 ア、ツ! (痛みをこらへながら)……、そいぢや、あのね……油で風景を一枚描いて。
五郎 なんだ、さうか。又引つかけたな? お前はズルイよ。
美緒 お願ひ。見たいの。三十号でいゝ。よくつて?
五郎 ……仕方が無い、描くよ。……(注射液を慎重に押し出しながら)だけど、三十号は無理だ、絵具が無い。俺のは又むやみと盛り上げるんだから十円や二十円では足りん。(注射をすまして跡にバンソウコウを張る)……そら済んだ。
美緒 金はあるの。ほら……(と言つて枕の下から紙幣を五六枚取出す)
五郎 ……え? どうしたんだ?
美緒 天から私にさづかつたのよ。
五郎 本当に、どうしたんだよ?
美緒 ……母さんが呉れたの。こないだ来た時――。
五郎 へえ、だつて変ぢやないか。お母さんからの二十円今月の分はもう貰つてある。
美緒 国の私の不動産を利男に書換へたら、私にも恵子にも三百円づゝ分けて呉れるんですつて。……その一部をあげとくんだつて。
五郎 え! そいぢや――(と急に何かに思ひ当つて椅子から立上る)……そいぢや、なにか、お母さん此の間、書換への事をお前に言つたのか?
美緒 ……(おびえてオロオロしながら)うん。……あん時……あなたが尾崎さんと浜へ出て行つた直ぐ後で……。
五郎 さうか。……そいで、お前、昂奮して、その後、あんな事になつたんだな。さうだな?……変だ変だと思つてゐたんだ。あんな風になる筈の無い症状なのに、どうしたんだらうと、今まで俺あ腑に落ちなかつたんだ。さうか……(今にも爆発しさうに腹が立つて来る。そのまゝでゐると美緒に喰つてかゝりさうな自分を怖れて、プイと廊下に飛び出して)……畜生! (廊下をドシドシ歩きながら)あんなに俺が頼んだのに……。
美緒 ……(小さくなつて、五郎を眼で追つてゐる)
五郎 無智だから無智だからとお前はよく言ふが、単に無智なだけで、こんな、見す見す、実の娘に対して、毒々しい事がやれるもんか。……あれは、此の俺がその不動産を自分の自由にでもするかと思つてゐるんだ。
美緒 ……(おびえて、手を合せんばかりにして)却つていゝぢやないの、こんな事でサツパリと縁が切れてくれゝば、もううるさくなくつて。……怒らないで。……私、こはいわ。
五郎 (それを見て、辛うじて自分を制する)……心配するな、乱暴はしない。……フフ、それでゐて、あの人がお前の病気をしんから心配してゐるのも本当なんだ。母親としての愛情に嘘は無い。だのに、あんな話をヅケヅケと、お前の病気にさはる事も考へてる余裕が無い。たとへ死んでも仕方がないと思つてる。……俺にや、どう言ふんだかサツパリわからないよ。……それが人間か?……さうだな、それが人間かもわからんな……(廊下に立停つて何か考へ込んでゐる)
美緒 (すがり付くやうに)そんな事どうでもいゝから、画を描いてね、此の金で。
五郎 ……(全く別の事を考へてゐる)いや、そんな事どうでもいゝや。……ハツハハハ、アツハハハ(不意に笑ひ出して)よし、それでいゝんだ、人間それでいゝんだよ。なにがなんでも生きりやそれでいゝんだ。生きる事が一切だ。そいつだけがすばらしい事だ。善いも悪いもあるもんか。
美緒 なんの事言つてるのよ?
五郎 う? うん、……あのなあ美緒、今日は赤井達が来るし、利ちやんも来るかも知れんが、喋つちや駄目だよ。いゝな、無言の行だぜ。
美緒 いゝわ、約束してよ。……でも此処でみんなお話してね、私寂しいから。……私、黙つて聞いてゐるだけだから。此処で話してね、……よくつて?
五郎 よしよし。
美緒 あゝ、うれしい! あなたつたら、誰でも直ぐに浜に連れて行つてしまふんですもの。……あすこで一体、どんな良い話をしてゐるの?……妬けてよ、私……。
女の声 (玄関から)こんにちわあ……。
美緒 あゝ、京子さんよ。
五郎 そら、黙つて! (玄関の方へ行く)や、いらつしやい。
京子の声 これから泳ぎに行くんですの。
[#ここから2字下げ]
 言つてゐる間に、京子の兄の比企正文が黙つて微笑しながら病室に入つて来る。つゞいて京子も玄関の間にあがつて、そこに坐る。比企は口数が少いが、しかしいつも平均して機嫌の良い調和の取れた真面目一方の男である。頭の中が常に論理的に整理された人間のみに在る落着きと、同時にそんな人間にのみ特有の、病的でない偏執性を現はしてゐる。開業医らしい所は無く、研究室にこもつてゐる科学者と言つた風だ。これから海に行くつもりか、浴衣姿に皮のバンドをしめ、聴心器だけを懐中にねぢ込んでゐる。
 京子は身体の立派な美しい女で、潮風に荒れないやうに乱暴に厚く塗つた白粉の、頤や首の所がまだらになつたのが、変に魅惑的である。此の女にはひどく子供の様に――と言ふよりも白痴の様に無邪気になる時がある。そんな瞬間には、眼がスガメになつてしまつて、彼女自身も自分がいま何処にゐるのかわからなくなりでもするやうだ。これも浴衣姿。ニツコリして美緒に目礼する。美緒も目礼。
 二人の来た事を知つて小母さんが、イソイソしながら茶を運んで来る。
[#ここで字下げ終わり]
比企 (美緒に)やあ、今日は、どうです?
美緒 毎日、ホントにすみません。
比企 なに、浜へ行くついでにチヨツト診てあげようと思つて……。(聴心器を出す)久我君、フイブルは?
五郎 (比企と京子の中間、つまり玄関の間と病室の間の敷居の上に坐つて)ありません、昨日の午後から。
比企 一昨日の僕の処方は?
五郎 やつてます。おかげで食慾が少し出た。
比企 ナツハシユヴアイス?
五郎 かなり有ります。
比企 今朝起きぬけのプルス?
五郎 六十六。稍々微弱。
比企 フム……で、主治医は、やつぱり例の――?
五郎 ええ、今日も先程、一筒打つた。
比企 うむ……(あとは無言で、美緒の胸に聴心器を当てて、永い間、非常に慎重に診察してゐる。小母さんは美緒の着物を直してやつたりして診察の手助けをする)
京子 久我さんも泳ぎにいらつしやらない?
五郎 (診察の方に気を取られながら)え? いや僕あ。第一、もう冷いでせう。
京子 でも私、真夏よりは今の方が泳ぐの好きよ。ヒヤリツとして良い気持。……こないだ、三越であつた梅川隆三郎の個展御覧になつて?
五郎 いや、なにしろ暇が無いもんですから。
京子 見たわ私。相変らずケンランたるもんね。でも、なんですか、同じ事の繰返しね? よく飽きないと思ふわ。第一、あんな豊富な色を、あんなに繰返されると、美しいと思つて見てゐる間はいゝけど、ヒヨツと鼻についてトタンにヘドが出さうになるわ。さうぢやなくつて?
五郎 さあ、でも、あれはあれでいゝんでせうね。
京子 ……久我さん、音楽はお好き?
五郎 好きです。美緒も好きなんで、レコードでもと思つて心がけてゐるんだけど、そこまでは未だ未だ手が廻らなくつて……。
京子 レコードやラジオぢや駄目だわ。生で聞かなくつちや。此の秋、私達の仲間でオペラを上演するから聞きにいらつしやらない。切符送つて差上げるわ。
五郎 ありがたう。でも僕にやオペラつてやつは解らないんですよ。声を張り上げて歌ひながら啜り泣くなんて言ふのは苦手だ。あれは――。
比企 (はたで話されてゐる事にはお関ひなく、診察を続けながら)メンスは規則的に有るのかね、久我さん?
五郎 え?
比企 ……あんまり無いのぢやないのかね?
京子 まあ! 兄さんたら! (真赤になつてゐる。美緒も赤くなつて、まぶしさうに片手で額をかくす)
比企 なんだ? (キヨトンとしてゐる)
京子 失礼だわ! 婦人の面前で、ねえ奥さん!
比企 いやあ、不規則なクランケで時々原因無しにブルーツングを見る事があるんだ。そいで――。
京子 もう、いやつ! 私、ぢや、先きに泳ぎに行くわ。失礼ねホントに兄さんは! (言ひざまパツと立上つて玄関からドンドン出て行つてしまふ。動物じみた敏捷さである。遠ざかりながら、カルメンの独唱を歌つて行く)
比企 ……なんだい、スツトンキヨウな奴だなあ。……いやねえ、その五日前の発作の原因が、どうもハツキリしないんでねえ。
五郎 いや、それなら有るんだ。原因は有るんだ。チヨツト精神的にシヨツクを受けた事が有るんですよ。
比企 さう、それなら、それでいゝが。でも、そんな事今後避けてくれないといかんなあ。……とにかく別に変りは無い。処方は一昨日と同じでいゝ。安静を守つて貰ふ。流動物を、さう、量は好きなだけ。……ぢや、又来るから、これで僕は。
美緒 ……ありがたうございました。
比企 これから泳ぐんですよ。かなり冷いけど、仕方がありません。でも、もう若い奴にはかなはんね。京子の方が僕よりズツと泳げるんですよ。ハツハハ、(五郎に)君も行かない?
五郎 僕は後で……。
比企 さう、ぢや……(気軽るにヅカヅカ立つて、小母さんがペコペコして下駄を揃へたりしてゐるのも殆んど無視して出て行つてしまふ)
小母 ……(美緒に)ホンマに、いゝ先生どすなあ!
美緒 (それにコツクリをして見せてから五郎に)ホントに純粋な科学者なのね? 診て貰つてもいゝ気持だわ。
五郎 うん。ハツキリしてるよ。自信も持つてゐるが、出来るのも出来る。福岡の医科大学はじまつて以来だと言ふからね。もう、とうに博士になつていゝんだが、論文なんか愚劣で書く気がしないと言ふんださうだ。
美緒 ……京子さん、なんだか、あなたに興味を持ちはじめてるんぢやないかしら?
五郎 馬鹿な事言ふな。……ハハ、さうだ。興味と言へば、変つた生き物がゐるから見てやれと言つた眼付きだね。
美緒 いえさ……。
五郎 そら、無言の行、無言の行。……赤井達はおそいなあ。……俺あチヨツトひと仕事やらうか。……よし。(立つて、手で美緒の額の熱を計つて、うなづいてから、ヅカヅカと廊下を通つて湯殿に消える)
小母 (それを見送つてから)……奥さん、お気分どうどす?
美緒 ……(コツクリ)
小母 (ニコニコしながら)こうんな所までペトペトに白粉塗らはつて、(と京子の真似)さうですわよ! はあ、さうですわ! こうどす。可愛らしいモダンガエルはんどすけど、えらい鼻が天井向いてはりまんなあ! アツハハ。(美緒がニコニコするのに満足して茶の道具や座蒲団を片付けに居間の方へ。そこでゴトゴト片づけ物をしてゐる)
[#ここから2字下げ]
間。
 美緒はジツと動かない。……やがて、ソロソロ自分の頬を撫でゝ見る。それから枕元に差し込んであ
前へ 次へ
全20ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング