になるもんぢや無いわよ。
五郎 ……そいで恵子さんは、今日見えたんですね?
恵子 まあ、ひどいわ! それだけの事でわざわざこんな所に来るもんですか。姉さんの見舞ひが主よ。
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間。――母親はまだ涙を流してゐる。話からスツカリ除外された尾崎が砂丘の蔭から時々覗いてゐる。
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五郎 ……もしかすると、お母さんは、美緒に万一の事があると僕がその遺産をみんな自分の物にしてしまうとでも思つてゐられるんぢやありませんか?
母親 (いろいろの意味でひどく周章狼狽して)いえ、そんな! そんな、あんた! そんな事を考へたんだつたら、初めつからこんな事を、あんたに相談したりするもんですか。そりや、そんな事をあんた言ふのは、あんまり……。
五郎 ……(ニヤリとして)籍こそ入れてなくつても、美緒と僕が結婚してから七年になりますしね、美緒の物はチリツパ一つだつて合法的に僕の思ふ通りになりますからね。……ハツハハハ、(不意に笑ひ出す)でも安心して下さい。僕にやそんな気は全然有りません。不動産は利ちやんの物です。美緒は、分け前も要りません。たゞ、今、彼奴にこんな事を聞かせるわけには行きませんから、自由にして下さるにしても、あれに聞かせないでやつて下さい。
母親 (涙を拭きもしないで、怒り出す)……でも弁護士の言ふには、美緒の承諾が無くては登記するわけには行かないと言ふんですから、そんな事言つたつて――。
五郎 とにかく、あれに聞かせる事は僕がおことわりします。
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母親が眼を怒らせて喰つてかゝらうとしてゐる所へ、家の方向から小母さんが息せき切つて駆けつけて来る。
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小母 五郎はん! 五郎はん! 五郎はん! (眼の色が変つてゐる)五郎はん!
五郎 (ハツとして)あ、小母さんどうしたんです?
小母 早う戻つて! 早う戻つておくなれ! 奥さんが、又、奥さんが――。
五郎 どうしたんです?
小母 (口から何か吐く真似をチヨツとして)……早う! 早う戻つておくなれ!
五郎 (ギクリとするが、今迄に馴れてゐるので割に自分を制しながら駆け出しさうにするが)……(チヨツト何か考へてゐてから、母親と恵子に)書換への話を美緒になすつたんぢやないでせうね?
母親 ……いえ、そんな、そんな事言ふもんですか。
五郎 本当ですね?
恵子 (五郎の眼に射すくめられて)……言ひはしませんよ。
五郎 さう。……(急に、小母さんと一緒に脱兎の様な早さで家の方向へ走り去つて行く)
母親 ……(さすがに実の母親で、思はずその後を追つて小走りに行きかけ)どうしたんだらうね? え、恵子? 美緒に何か――?
恵子 行かない方がいゝわよ、母さん。母さんが行つたつて、又病人が気を立てるばかりで、邪魔になるばかりよ。大丈夫よ。(肉身の姉に対する心配を感ずれば感ずるほど、美緒の病気に対する嫌悪の情も強くなる。その自分の矛盾を、母親を殆んど乱暴と言つていゝ程の動作で押しとゞめる事に依つて打切りながら)ソツとしといて、鎮まつてから行つてあげる方がいゝと言つたら!
母親 さうかねえ……。(やつぱり怖くて行きたくは無い。しかし心配で心配でたまらず、その辺をウロウロしたり、流れつぱなしになつてゐた涙を拭いたり、ウロウロした末にスケツチ板のカケラを無意識に拾ひ上げて、それを見たり、家の方向を見やつたりしてゐる)
恵子 きたないわよ、母さん! (これは割に落着いてゐるが、何と思つたか、不意に帯の間からコンパクトを出して、鏡で顔を覗いて白粉をはたきはじめる)……。
尾崎 (砂丘の横から出て来て、ニヤニヤと恵子の傍へ寄つて行きながら)やあ、御心配ですねえ。どうなすつたんですかねえ? どうも……。
3 家で
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数日後の日曜日の正午過ぎ。
ドンヨリと曇つて蒸し暑く風の無い天気である。
美緒が病室の寝台の上に仰臥し、静かな眼で庭の方を見てゐる。寝台の頭の寄つかゝりの上に酸素吸入の器具が取りつけられてゐて、そのガラスの口が彼女の顔の上に開いてゐる。低くシユーシユーと酸素の出る音。大きな発作から数日を経て一応小康を得たと言つた感じで、あたりの道具の配置その他、この前とはなんとなく違つてゐる。
たつた今、医者が戻つて行つたばかりらしく、病室に椅子が一つ出しつぱなしになつて居り、小母さんが、医者が手を洗つた洗面器とシヤボンと手拭の後始末をしてゐる。数日間の心配と睡眠不足のために小母さんも疲れてゐる。珍らしくきまじめな顔をして、話す声も努めて低い。
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小母 (洗面器をかゝへて立上り)……奥さん、どうどす? 障子締めまつか?
美緒 ……(静かにかぶりを振る)
小母 相変らず黙あつたお医者さまどすえなあ。
美緒 ……(ニツコリして手真似で、横になつて眠つて頂戴と言ふ)
小母 へい、へい。奥さんが良うなつて呉れはつたで、今頃になつて睡気が出て来ました。でも、五郎はんに較べたら、あてなどが睡いなど言ふたら罰が当りま。……でも、なんどすな、いゝ具合に比企先生が東京からお見えになつてゐやして、ホンマにようおしたなあ。これと言ふのも奥さんの運気が強い証拠どすえ。
美緒 ……(何度もコツクリをして見せる)
小母 此処のお医者さまだけでは心細うてなあ。あの方はホンマに黙あつてばかり居やはつて、たより無うて。……さあさ、少しお休みやす。
美緒 (ニコニコ笑つてゐる)
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小母さんは洗面器を持つて庭に降り、樹の下に水を撒く。……間。
そこへ医者を送り出して外へ行つてゐた五郎が玄関から黙つてあがつて来る。注射液のアンプルを一本手に持つてゐる。唯さへ憔悴した顔付きが、この数日間の不眠不休の看護のため怖い位にゲツソリと青ざめてゐる。美緒よりも顔色が悪いのである。しかしこんな事には馴れてゐるのと、気が張つてゐるので、前場の浜に於ける彼よりも自分で自分を支配してゐる平静さを保つてゐる。……スタスタと居間の方へ行き棚の上から注射器を取つて、明るい縁側に来てアルコールで消毒しはじめる。
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小母 五郎はん……お疲れどすやろ?
五郎 小母さんこそ疲れたでせう。少し昼寝をして下さい。
小母 そいで……どんな風?……(眼に物を言はせて、手真似で立去つた医者の事を示す)
五郎 ……(病室の方をチヨツト振返つて)なに、これをやつといてくれ、もう大した事は無いと言つてました。……
小母 ……(手真似と眼顔で色々と訊く。それに五郎も答へる。話の内容を病人の耳に入れたくないのである。会話の細かい事はハツキリわからないが、とにかく、既に差し当りの危険は通り過ぎたと五郎が言つてゐるらしい事が、小母さんのホツとした様子から察しられる)……。
美緒 ……(低い低い静かな声で)あなた……。
五郎 ……おい。(唖問答をやめて、病室を見る。小母さんはそれに気付いて、ソソクサと洗面器を持つて庭を廻つて台所の方へ去る)どうした?……今注射器の支度だ。……この患者の注射にかけてはあなたの方が私よりうまいらしいから、あなたに委せます。先生さう言ふんだよ。笑はしやがらあ。……さ、出来た。(言ひながら、病室の方へ行く)もう大丈夫ださうだ、でも用心のため、もう一本打つとこうと言ふんだ。こんなもん大して効きやしないがね。どうせゼラチンをどうにかした薬だらうからな。……直ぐ、やるかい?
美緒 ……痛いから、いやだ。
五郎 ハツハ、ちつとは痛いよ。
美緒 その代りに、この吸入を、よしてくれたら、やる。
五郎 又馬鹿を言ふ。吸入よしたら又息が苦しくなつてヒーヒー言ふぜ。
美緒 うゝん、もういゝの。……とても、らくになつた。……それに、今日は赤井さん達来るんでしよ? こんなものしてゐて心配させちや悪いわ。ね、取つてよ。……ホントにもう何とも無いから……だいち、変に臭くつて、いやだ。
五郎 赤井が来たつて平気だ……でもホントならチヨツトの間、よしてやつてもいゝ。(吸入器を片附けながら)どうだい、平気かい?
美緒 えゝ。……却つてセイセイしてよ。
五郎 ……だが、比企さんが丁度来てくれて、実に助かつたなあ。やつぱり、ありや良い医者だね。処置の仕方が徹底的だよ。一番ひどい時に、お前の手足の根元をギユーギユ―しばり上げたにやチヨツトびつくりしたがね。だが、考へて見ると、止血の方法としては原始的だが一番効果があるわけだ。
美緒 でもしびれて痛かつたわ。まだ跡になつてゐてよ。……比企さんも京子さんも、臨海亭でよくして呉れてるかしら?
五郎 大丈夫だ、昨日も俺が行つて頼んで来た。(酸素筒の始末をしてゐる)
美緒 ……京子さん以前よりも綺麗になつたわね?
五郎 そうかね。……
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短い間。
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美緒 あなた、少し眠つたら?
五郎 なに、いゝよ。大して眠くないよ。
美緒 でも、もう四日四晩よ。……私がいつ眼をさまして見ても、あなた、おつかぶさるやうにして私を睨んでゐるんだもの……。眼をグリグリさせてさ……私、しまひに滑稽になつたわ。
五郎 へつへ、おつしやいます。ボロボロ、ボロボロ涙ばかりこぼしてゐたくせに。
美緒 だつて苦しいんだもん。……あなたつたら、咳をするな、……こらへろ、……気を鎮めて、……戦争だぞ……咳をするな……呼吸《いき》をするな……。あなた、憶えてゐて?
五郎 馬鹿言え。呼吸をしなかつたら、出血も止るだらうが、命もとまつちまわあ。
美緒 だつてさう言つてよ。……行《ぎやう》だ、行だ、行をしてゐるんだ。俺もしないから、お前もするな、呼吸をするな!……覚えてゐるわ、私。……あんなに落着いてゐるやうでも、あなたやつぱりアガツてしまふんだわ。……フフフ……でも、大丈夫かなあ?
五郎 なにが?
美緒 ……だつて、私が咳をすると、あなたの顔や胸の辺まで……トバツチリで真赤になつたわよ。伝染らんかなあ?
五郎 伝染るもんか。伝染るもんなら、もうトウに伝染つてら。そんな心配は手遅れだ。
美緒 あなたが又私みたいになつたら……私、どうしよう?……、私、時々……あなたも私と同じやうに……病気にしてやりたい事があるの。
五郎 どうしてだ?
美緒 どうしてだか。……意地が悪いでしよ?……もしかすると私には……なんか悪魔みたいな、恐ろしい性質が有るかも知れないわよ。……よくつて? (眼だけ鋭く五郎を見詰めたまゝ、顔はニコニコしてゐる。それが何かゾツとするやうな印象である)
五郎 (少しドキリとして)……。(押し殺した声で)いいよ、お前が悪魔なら俺も悪魔だ、伝染したきや伝染せ。そして二人で一緒に死ぬか。フツフフフ。
美緒 ……私、とても滑稽になる事があるの。
五郎 なにが?
美緒 ……だつて私は死ぬまいと思つて、こんだけ気ばつてゐるでしよ? あなただつて、そのために苦しんでゐるわね。……だのに私がもう生きてゐまいと思へば実に簡単なの。かうして、グツと舌を噛めば、それでおしまひ。とめようと思つてもあなたにもどうする事も出来ない。さうぢやなくつて?
五郎 ……(相手を睨んでゐる)
美緒 ……ねえ。あのね――。
五郎 うん?
美緒 神様は在るの?
五郎 なんだよ? 神様?……(びつくりして相手を見詰めてゐる。美緒の頭の中にどんな思考が往来してゐるかを見透さうとしてゐる。不意にわざとニヤニヤして)ハツハ。お前、病気がつらいんで、神様が欲しくなつたのか? 俺が何と答へればお前の気に入るんだ? 欲しきや、いくらでも作り出したらいゝぢやないか。
美緒 (眼をカツと開いて、五郎の調子に乗つて行かうとしない)うゝん、はぐらかさうとしたつて駄目。……[#「……」は底本では「・…」]私、まじめよ……聞かして。……私、あなたの言ふ通りに信じるから。……[#「……」は底本では「…‥」]だから、あなたもまじめに言つてよ。うゝん証明して貰はなくともいゝの。理窟は要らない。本当の事を一言で言つて! ……神様は在る?
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