てしかし、五段や六段の田でこれから百姓をすると言ふても、うまく行くかどうか心細い話よ。でもまあ、クヨクヨ取りこし苦労をしても始まるめえ。まあ、いゝよ。
五郎 だつて、あれだけにした店を、惜しいぢやないかね? なんとかならんかなあ?
裏天 そりやさうさ。まあ、なんとか此の一月の間に少し整理をして立直したいと思ふとるよ。ところ――が、その一月がもう危くなつて来てのう。なんしろ、銭が五円もなくなつてしまうて、かゝあなんぞもう眼が釣り上つてゐら。こんな事言ふてもあんたらにや本当になるまい。ところ――が、それが本当ぢやから仕様が無え。わしらだけで無く、此処いらん小商人の内幕なんぞ、そんなもんさ。ヘツヘヘ。そんな心配しなさんな、あんとかなるべえ。そいぢや……。
五郎 ま、待つてくれ。そんな君! ……弱つたなあ。そいで、その、現在どれ位金が有つたら半月でも一月でも、その、なんとかして行けるの?
裏天 あゝに、心配しねえでいゝよ、あんたにも無えんだらうが。あんたはこれまで金が有りさへすればチヤンと呉れただからなあ。わしらあ信用してるよ。しかし、無えものは無え。お互ひだあ。
五郎 だから、今、いくら有つたら――?
裏天 いくらかくらと言つたつて、二十円でも三十円でも有りや大したもんさ。んだが、まあ久我さんそんな心配するなよ。アハハハ。
尾崎 (笑ひながら押問答を傍観してゐたが)おい、久我君、僕が出してやらうか?
五郎 え? ……君がか? ……貸してくれるのか?
尾崎 全体、家賃はいくらなんだい?
五郎 一月十五円だから、百円足らず溜つてゐる。
尾崎 十五円とは安いなあ。さうさなあ、(と大きなガマ口を出して)百円なんて今日は持つて来てないけど、五十円ならある。(アツサリ紙幣を取り出して)これを君に貸してやらうぢやないか。なに、此の次に来た時に書類を書き換へて呉れりやいゝさ。
五郎 ……(変な顔をしてためらつてゐる)さうか、でも……。
尾崎 遠慮はいらん。僕としてもこんな話を聞いて知らん顔はして居れないよ。いゝから君――。
五郎 ……さうして呉れりやありがたいが……(決心して)ぢや拝借しよう。これだけ僕の元金の方へ繰込んでくれよ。ありがたう。……(裏天へ)さあ、裏天さん、これを。
裏天 (けゞんさうな顔で尾崎と五郎を見較べてゐる)……いゝのかね? わしら、どつちにしたつて同じやうなもんだから、無理をなすつては、いかんぜ。後であんたがみすみす困るやうな金は貰へんぜ。いゝかね?
五郎 いゝんだ、いゝんだ。大丈夫だから。
裏天 さうかね? ……ぢやいたゞくか。これで助からあ。かゝあ大明神がよろこぶよ。ヘヘヘ、ありがたう……(紙幣を二つに分けて)これは、久我さん、あんた持つてゐな。わしらん所は三十円有りや沢山だで。
五郎 いゝんだよ、俺んとこは今要らんから、いゝんだ。
裏天 困つてゐるのはお互ひだ。さ、これを。
五郎 いゝんだつて言つたら。早く帰つて、おかみさんに渡してやれよ。
裏天 さうかい? 済まんなあ。そいぢや、……どうもありがたう(と当然の家賃を貰つて頭を下げる男である。尾崎に向つても、なんとなく頭を下げて)ありがたうがした。そいぢや又――。(鈍重ながらイソイソして砂丘を越して立去る)
尾崎 ……おつそろしく人の好いオヤジぢやないか。
五郎 (裏天を見送りながら)うむ。……おかみさんが、又、少し足りないかと思はれる位の良い人間でねえ。……俺あ、あの一家族を見てゐると時々泣きたくなる事があるよ。無智は無智なりに、あんな美しい連中が時々居るんだ。ホツとするよ。こんな所でゴタゴタしながら生きてゐるのも、捨てたもんぢや無えと言ふ気がするんだ。……(振返つて)だが……君にや済まなかつた。助かつたよ。ありがたう。
尾崎 なあに、お役に立つて何よりだ。ハツハハ。
五郎 先刻は、暴言を吐いたり怒つたりして済まなかつた。どうも、ひどく疲れてゐるもんだから。たしかに神経衰弱だね。
尾崎 なあに、礼を言はれちや却つて恐縮だよ。言はゞまあ、まあ、これが僕の商売だからな。
五郎 (純粋に感謝してゐたが、相手の言葉でフツと又妙な気がして尾崎の顔を見る)……そんな君――。済まなかつた、せつかくの画を破つちやつたりして……。
尾崎 なあに、いゝよ、いゝよ。ヘツヘヘヘ、どうせ君、こんな画だもの。ヘツヘヘヘ、どうだい、助かつたと君は言つたね? ハツハハ、僕の金だつて君を助ける事が出来るんだね? 僕は君の言ふやうに猿だからな、猿の金だ。今のは猿の金だよ。そいつで君も、今の裏天も助かるんだ。ヘツヘ、俺は猿だ、猿の金だよ。ヘヘヘヘ! (とぼけた様な調子で笑ひつゞける。それが却つて殆んど呪ひ倒すやうに毒々しい感じである)
五郎 ……(相手の気持がわかつて、突然真青になる。しかし今度は何とも怒りようが無いのである。みじめなみじめな姿。両手がピクピク痙攣してゐる)
尾崎 (スケツチ箱をしまひながら)僕あ、猿だよ。ハツハハ。キツ! キツ! キツ! キツとね。ヘツヘヘヘ、ヘヘ。
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間。……沖を通るポンポン蒸汽船の響。
 次第に坐つてしまつた五郎。歯を喰ひしばり石の様になつたまゝ、猿の鳴き真似をジツと聞いてゐる。尾崎は又あばれられては困ると思つて横目で、五郎の方をチラリチラリと見て、少しづゝ後しざりをしながら、ヘラヘラ笑ふ。そこへ、母親と恵子が戻つて来る。
[#ここで字下げ終わり]
母親 やれやれ、砂の上を歩くと、くたびれるもんだねえ……(五郎に)お話は済んだの?
五郎 ……。
尾崎 やあ……済みましたよ。ハハ、済みました。
恵子 (五郎の様子が変なので)五郎さん、どうかなすつたの?
五郎 ……え? いや、あゝ、なに。
母親 そいで、あの、名古屋の地所と家屋の書換への事なんですけどねえ。ねえ、五郎さん(といきなり勢ひ込んで語り出す)……もともと、あれが美緒の名儀になつてゐると言ふのが、死んだあれの父親が散々道楽をして、次から次と家の不動産を金にしちや使ひ込んでしまふもんですからね、このままにして置くと子供達の養育費なんか無くなつてしまふと言ふのでお祖父さんが心配なさつて、父親を言はゞまあ禁冶産と言つた風にして分家させてしまつて、その後へ長女の美緒を戸主に直して、現在残つてゐるだけの地所家屋の名儀人に立てたんですよ。その辺の所は、あんたも知つてゐますね。
五郎 ……えゝ、知つてゐます。
母親 そんなわけだから、初めつから、どうせ利男が大きくなれば、何と言つてもあれが長男だから、地所も家屋もあれに来るのが当然なんだから、早く戸主に直して利男のものにしてやらなきやならない物なんです。それが延び延びになつてゐたのは、書換へには、なんでも六百円以上も相続税やらなんやらかゝるさうで、それが内でも、美緒の病気やなんか次々と物入りで、それだけの現金がどうしても浮いて来なかつたものですからね、それでさ――。
五郎 えゝ、よくわかつてゐます。……そりや利ちやんが受取られるのが当然ですから、どうぞそんな風に――。
母親 それがですよ、利男もあゝして学校も無事に卒業して就職すれば間もなく嫁も取らなきやなりませんしね、そして結局、行く行くは私も利男にかゝらなきやならないし、僅かな物でも、早く片附くところへ片附けとかないと安心出来ませんからねえ。
五郎 ですから、御自由に書換へをして下すつてもいゝだらうと思ふんです。美緒には、少し良くなつたら、僕からさう言ひますから。
母親 このままズルズルして居て、もしかして美緒に万一の事でもあると、当人が居なくなるわけなんだから、又々面倒な事になります。この間弁護士に聞いたんですよ。いえさ、私だつて、どんな事があつても美緒を死なしたくはありません。自分の腹を痛めたかしら娘なんですからねえ。このまゝポツクリ行かしてたまるもんですか。(泣き出してゐる。彼女が娘を愛してゐることは真実なのである)でも人間、老少不定といふ事はありますからねえ。それに美緒が今の様な有様では、あんまり安心しても居れないんですから。(泣く)
五郎 ……(心にズキリと斬り込んで来るものがあるが、黙つてこらへてゐる)
恵子 母さん泣いたりして、エンギが悪いぢやないの、姉さんまだ死ぬものと決つたわけぢや無くてよ、馬鹿ねえ。(と人柄とはおよそ不似合ひな事を言ふ)
母親 だつてさ、近頃の美緒を見てごらんな。あんなに綺麗な顔になつてしまつて。死ぬ病人は綺麗になるもんだからねえ、私あ、あの子の顔を見るたんびに、ドキツとするんですよ。私あ、あれに今死なれたら、今死なれたら、どうして生きて行けるんだか。……ホンにならうものなら私が身代わりになつて死んでやりたいよ! ホントに! (泣く。これは全く正直にさう思つて悲しがつてゐるのであつて、嘘でも偽りでも無いのである)……たつた卅過ぎやそこらで、貧乏ばかりして何一つ楽しい目も見ない……良い着物の一つ着るんじや無し、気だての良い子は早く死ぬと言ふが、……こんな事なら、もつと良い目を見せて置くんだつたよ。
五郎 ……(相手の言葉がピシリピシリと自分を打ち叩くのである。その打撃に首を垂れて動かない)
恵子 母さん、……五郎さんにそんな事を言ふもんぢやなくつてよ。
母親 え? いえさ、私あ五郎さんに当てこすつてこんな事を言つてゐるのぢやありません。だつて可哀さうぢやありませんか。
五郎 ……済みません。……しかし、……しかし、美緒は死にやしません。……死にやしませんよ。
母親 だつて。あんたがそんな事言つたつて、あの分ぢや、どうなるかわかりません。そいで今の内に、書換へを済ましとかないと、ポクリと行かれると、不動産が宙に迷ふからですよ。(泣きながら。これも彼女としては真実なのである)
五郎 ……で、この事は利ちやんは知つてゐるんですか?
母親 知つてゐます。でも利男は、今姉さんが、こんな状態になつてゐるのに、そんな話をするのは悪いから、後にしろと言うんですよ。でもねえ、今日明日にも万一の事が有ると取返しが附かないから。
五郎 僕も利ちやんと同じやうに考へるんですが。……今美緒にそんな話をすると、又病気を悪くするばかりだと思ふんです。言はゞまあ、あれだけ重い病人の枕元で、病人の死んだ後の遺産相続のことを相談するわけなんですから。……そんな残酷な事はとても出来ません。もう少し、もう少し良くなつてから……。
母親 ですからさ、もう少し待つて良くなればいゝが、死なれてしまふと、それつきりになつて、又余分な物入りだから……。
五郎 ……大丈夫です。かりに万々が一、いけなくなる事があつても結局不動産は利ちやんに行くんですから、別に問題は無いと思ふんです。
母親 さうですとも。そりや、あんたと言ふ人がゐるけれど、美緒が戸主になつてゐるんで、籍もまだ入れてありませんしね、あんたにはお気の毒だけど、そこん所は――。
五郎 え?……(ギクリとする。自分が今迄思つても見なかつた事を言はれて不意に、相手の考へが掴めたやうだ。青くなつてゐる)……それ、なんの事でせう?
母親 いえね、あんたにも散々苦労をしていたゞいたんですけど、美緒の病気で私の方でもこれで随分の物入りを続けて来てゐるんですから。
五郎 えゝ、それは、ありがたいと思つてゐます。僕に金が無いもんですから色々御心配をかけて――。
母親 ですからさ、財産を利男に書換へる際には、どうせたんとの事は出来ないんですけど、あなたの方へもいくらか廻さなければならないと私は思つて――。
五郎 いや、僕あ、そんな物要りません。
母親 いえ、それはね、とにかく今迄名儀だけでも美緒の物だつたんですから、あなたが要らないと言つても、どうせ美緒にやらなくちやなりませんから。
五郎 いえ、美緒も僕も、要らないんです!
恵子 だつて五郎さん、それは当然の事ですよ。家の財産ですもの、長男だけがソツクリ相続してしまふと言ふ手は無いわ。娘だつて、それぞれの分け前を貰ふのが当然ぢやなくつて? 姉さんだつて、そいから私も実はいくらか貰はうと思つてゐるのよ。貰つて邪魔
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