入りたく無いと言ふのは、わからんがなあ? まさか、水谷先生が君にインチキ画を描けと命令するわけぢやあるまいし、君の描く画の批評だつてしやすまいと思ふんだが? 又批評されたつて、水谷先生は水谷先生、君は君で、お互ひに一家をなした画家なんだから、自由に仕事をすればいゝぢやないか? 大体、画の仕事の上で、水谷先生位を怖がる君でも無いだらうし、怖がる必要もないと思ふがなあ。君なんぞ、あらゆる意味で水谷清次郎なんか、当の昔に卒業しちやつてるもんな。もつとも先生が今君を欲しがつている理由も実は、そんな君の実力に在るんだが。……とにかく、どんな点から言つても、なんで君が彼処《あそこ》に行くのをそんなに嫌がるのか、僕にやわからん。
五郎 ……俺にや当分画が描けんからだ。
尾崎 だからさ。彼処に行つて金になる仕事を分けて貰へば描けるやうになるぢやないか。先刻言つた本質的な行詰りと言つたやうなものも、周囲の空気で打開出来るんぢやないかしら。君は少し大袈裟に考へ過ぎてゐると思ふんだ。
五郎 ……それに、俺あ、水谷さん嫌ひなんだ。
尾崎 子供みたいな事を言ひたまふな。君が先生を嫌ひな事は初めから知つてゐるよ。しかし、好き嫌ひが何だい? そんな変な事ばかり言つてないで本当の事を聞かしてくれよ。
五郎 ……ぢやね、尾崎君、君も本当の事を聞かして呉れ。俺あ不思議でならないんだ。水谷先生、なんでそんなに俺を欲しがるんだ? 先生は以前に俺の画をクソミソに頭からくさした人だよ。そりや、いゝんだ。世の中にはどんな批評だつて有るから、どんな筋違ひの事を言はれたつて、俺あ構はん。含んでゐるわけぢや無いんだ。たゞそんなに言つてゐた俺の事を、なんでそんなに欲しがるんだか、俺にや腑に落ちないんだよ。
尾崎 そいつは先刻言つた。あの人が君の実力を認めてゐるからだよ。昔いくら悪口を言つたつて、いや、つまり認めてゐたから悪口を言つたわけだが。……いや、君がそこまで言ふなら、モツト本当の事を言つちまはう。もつとも、これは半分以上僕の解釈だから、そのつもりで聞いてくれ。いゝかね。それは、一言に言つちまうと新水会で現在水谷さんの占めてゐる位置のためさ。……君あ多分知るまいが、今新水会の内部は審査員や会員の間の勢力争ひの暗闘で大変なんだ。以前からそりや有つたが、最近文部省展覧会が大々的に組織変へになる筈になつてゐるんだ。それに民間の美術団体も大部分合流する事になつてる。新水会も多分そこへ解消する筈なんだ。ところで、解消する場合、今迄の新水会の頭株の連中が文部省展覧会の中でどんな風な位置を与へられるか。みんなやつぱり、こいつは大事だからね。今迄新水会で威張つてゐたのが、官展になつて急に追ひ落されたくはないやね。第一下手をすると飯の食ひ上げだもんな。それで目下の所、会の中で出来るだけ有利な地盤を固めて置く必要が有るんだ。内部の暗闘が急に盛んになつたわけだよ。ところが、明石、室井、水谷の三頭目なんだが、こん中から官展の審査員に推されるのは多分一人だ。すると、明石、室井に較べると水谷さんは経歴こそ稍々古いけど実際の勢力から言つてチヨツト分が悪いんだよ。人望の点では室井に押されてるし、弟子や支持者を沢山持つてゐると言ふ点では明石さんに劣るしね。第一、門下生に持駒が少い事が一番の弱味なんだ。毛利さんを筆頭に十人以上も息のかゝつた会員が居るにや居るが、毛利さんぢや腕は有つても、少し画が古くなつたしね、何と言つても新しい魅力の有るスタア級の水谷派が一人も居ない。フオーヴやシユールがゝつた連中が二三人ゐるけど、まだチヤチだしね、やつぱり官展になつてから特選級になれるやうな大物で、しかも新しい物の描ける奴が欲しいんだよ。……そいで、君に、そのなんだ、来て欲しいんだと僕は見てゐる。
五郎 ……なる程、持駒か。
尾崎 わかつただらう、どうだい?
五郎 わかつた。
尾崎 僕は洗ひざらひ言つちまつた。今度は君の番だ。なんで君が嫌がるか、本当の所を聞かしてくれよ。
五郎 君が言つちまつたよ。
尾崎 なんだつて?
五郎 ハツハハ、俺が水谷さんの所に行きたく無い本当の理由は、今君がスツカリ話したんだ。水谷さんが俺を欲しがる理由が、そつくりそのまゝ俺が水谷さんの所に行きたくない理由だ。嘘は言はない。俺あ、人の持駒なんかになるのはごめんだ。自分がホントに尊敬してゐる奴なら、そいつの足を俺あ舐めてもいゝ。俺あ未だ未だ画にかけては青二才だ。自分よりも偉い画を描く奴の前にや、いくらでも頭を下げる。しかし水谷さんなんかの画に頭を下げるわけにや行かん。第一、俺あもともとヱコールつて奴がしんから嫌ひなんだ。小さく固まつた一つ一つのヱコールなんて、そんな、そんな事のために男が一生かゝつてムキになつて修業をする価値があつて、たまるかい! 俺あ一個の画描きだ。それで沢山だ! 徒党を組んで押し歩かうと言ふ慾望なんか無い! 野つぱらをたつた一匹で歩いて行く狼でたくさんだ。ましていはんや、そんなくだらない芸術政治や策謀なんか、骨がシヤリになつてもいやだ。ことわるよ!
尾崎 ……ふーん。……そいで、そんな偉らさうな事を言つてゐて、生活はどうするんだい? 金はどうするんだ? 君の言つてゐる事は、現在では自分の生活を拒否すると言ふ結果になるぜ?
五郎 そんな事あ無い! ……万一さうだつたら、俺あ食はなくつたつていゝ。
尾崎 さうかねえ。……しかし、ぢやあ、奥さんはどうするんだ?
五郎 なに?
尾崎 そんなおつかない顔をするなよ。金が無くつて、あの奥さんをどうするんだと言つてるんだ?
五郎 ……。殺す。
尾崎 なんだつて?
五郎 俺が殺す。殺してやる。
尾崎 冗談言ふなよ。第一、僕がたつた今、金を返してくれと言つたら、どうするんだ?
五郎 ……だから、だから、月末まで待つてくれとこれ程頼んでいるぢやないか?
尾崎 勿論、それでいゝと僕も言つている。唯、君が、ひどく古めかしい潔癖さのために不必要な苦しみをなめてゐるから同情してこんなことを言つてゐるんだ。ハツハハ、昂奮するなよ。
五郎 ……いよいよ困れば俺は荷車引きにでも何でもなるから放つといてくれ。
尾崎 同じ事ぢやないかね? 芸術の世界に入り込んで来てゐるいろんな現実も醜いと言へば言へるけど、そんな物をも消化したり吸収したりして芸術それ自体も肥えて行くんだと僕は思ふがなあ。
五郎 知つてるよ。現に俺もそれをやつてる。しかし水谷さんの話は駄目だ。
尾崎 これだけ言つてもわからんのかねえ! ……全体君は人間を見るのにキレイな人間とキタナイ人間との二色にハツキリ区別しすぎるよ。さうぢやないか! 現に君があれ程讃美してゐるツンボの小母さんにしたつて、結局人間だ。つまり、水谷さんや此の僕とチツトも違はない性質を持つた人間だよ。腹ん中にやドブも有らうし、慾も持つてる――。
五郎 (遂に火の様に怒つてしまつた)黙れ! 小母さんはな、俺達からなんの報酬も期待しないで、あゝして身を粉にしてやつてくれるんだ。それをそれを――君なんかが、小母さんの事をどのツラ下げて言へるんだ! 君は唯の金貸しだ! 人に金を貸して高利を取つてゐりやいゝ人間だ! 画描きの真似事をして芸術家ぶつた事を言つてゐるが、それがどうしたんだ! いつでも、君も僕も共通な問題を持つてゐるよ、君の考へてゐる事は僕も考へてゐるよと言はんばかりのツラをしてザコがトトに混つた気でゐるが、ヘドが出らあ! ザコどころか、き、き、君なんかな、人間でも芸術家でもあるもんか! たゞの猿だ、画描きの真似をしてゐる猿だ! なんだ、こんな画が! これで画を描いてゐるつもりなのか! (と下駄でスケツチ板をベリツと踏み破る)画と言ふものはな、借金の催促をする片手間に描けるやうなヤワな物ぢや無いんだぞ! 人間一匹、血みどろになつて、火の様に焔の様に、命を投げ出してかかつて描いても描いても、描ききれないもんだぞ! ツラでも洗つて出直せ!
尾崎 (相手の狂態にびつくりしてゐる)な、な、なんだよ。そんな……そんな僕の画を、そんな事しなくてもいゝぢやないか! 君あ神経衰弱だよ!
五郎 神経衰弱だらうと、気違ひだらうと大きなお世話だ。帰れ! 帰つてくれ! 金は月末に返す。心配しないで、帰れ……(自らの昂奮に疲れ、ハアハア言つてゐる)
尾崎 帰るよ。せつかく好意を持つてやつて来たのに、猿だなんて言はれてさ、あげく、せつかくの画を踏み破られりや世話あ無いや。わあ、真二ツになつちまつた。ひでえよ! (ブツブツ言ひ続ける。でも此の男の性根は、こんな目に会つても、ホントに怒つてゐるのかどうか見当がつかない。顔を悲しさうに歪めて破れたスケツチ板をついで見たりしてゐる)
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間。……少し風が出たと見えて波の音が稍々高くなる。
五郎は黙つて家の方へ向つて行きかける。
[#ここで字下げ終わり]
五郎 ……(砂丘の向うを見て)あ……来やあがつた。
尾崎 なんだい。
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 そこへ商人らしい半白の中年過ぎの男がボンヤリした様子で出て来る。これは五郎の借りてゐる家の家主の荒物屋の主人。少しぼけた様な感じがあつて、ノロノと[#「ノロノと」はママ]物を言ふのである。五郎を見てニヤニヤと笑ふ。
[#ここで字下げ終わり]
五郎 やあ、裏天さんか。
裏天 なあんだ。いくらなんでもシトの目の前で、そんな事を言ふのは、ひでえよ、久我さん。
五郎 なんだよ?
裏天 近所近辺から、内のかゝあまで、さう言つてゐるのは知つてるけど、鼻の先で言はれたなあ、あんたが初めてぢや。ヘヘヘ、いくらわしらの鼻が低いたつて、まだこれでツラの地面よりや、いくらか高えと思うちよるんぢやからなあ。気い悪くするよ。ヘヘヘ。
尾崎 (クスクス笑ふ)ヘヘヘ、ツラの地面より高いは良かつた……(五郎に)近所の人なのかい?
五郎 (裏天に)……いつも済まんけど、もう少し待つてくれんかなあ。
裏天 今、家の方へ行つたが、又あのツンボのおつかあが出て来て、ベラベラやるんだけど、どうにも話が通じねえで困つたぞ。あんなに喋りまくられたんぢや、此方で何か口を出す暇なんか無え。
五郎 済まなかつた。……実は、今、金がまるつきり無いんで、……もう半歳以上たまつてゐるんで実に申訳無いと思つてゐるんだけど……それに荒物の借りも相当溜つてゐるしね。
裏天 なあに、金の無え時あ、誰の身も同じ事だ。クヨクヨしたつて仕方が無え。わしらの所でヒツパクさへしてゐなければ、どうせあんなボロ家だもん、家賃なんか半歳一年溜めて呉れたつて、こんな事言やあしねえよ。……どうも悪い時あ悪い事が重なるもんで、仕様が無えのう。かゝあがヤイヤイ言ふもんだから、かうして来るにや来たけど、まあ久我さん、クヨクヨしたつて始まらねえ、万事なるやうにしかならねえからな。……奥さん大事にしてあげなよ。そいぢや、又……(もう帰る気だ)
五郎 ま、待つてくれ、裏天さん、まあ、待つてくれよ、そいぢや、あんたの方だつて――(気の毒で気の毒で、此方がアワを喰つてゐる)
裏天 又、そねえな事を言ふ。目の前で裏天なんて言ふなて! ヘツヘヘヘ(尾崎に)やあ、……ごめんなして……(ノタノタ行きかける)
五郎 待つてくれ、それぢや、あんたの方も困りやしないかね? そんなムヤミと親切な事ばかり言つてくれたつて、そいで、あんたの方は――。
裏天 やあ、ま、いゝさ。どうにもならなかつたら、首でもくゝつておつ死んぢまうか。ハハハ、なんしろ、町に白木屋の支店のデパートが出来て以来と言ふもん、荒物の店なんかサツパリあかんやうになつてしまうてね、ハツハハ、そこへ持つて来て主な品物の値段が統制されてから此方、店を開けてゐればゐる程損になる月が有つてのう。国策ぢやと言ふから諦めとるが、さて、どんな勘定になるもんか、どうもこんな有様では今にえらい事になりさうなんで、も一月ばかり様子を見た上で、あかなんだら、店じまひをしてしまうて、田舎で百姓しようと思ふとる。さうなりや、あんたに貸してゐる家なども売つて行かなならんが、さ
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