ふ事だつて出来ると思つてゐた。嘘ぢや無い、さう信じ込んでゐた。どう言ふわけでさう思つてゐたか、わからん。少し気狂ひじみてゐるかも知れないが、とにかくそんな人間だつた。……そいつが、美緒を見てゐて少しづゝくづれて来た。……いやまだくづれたわけぢや無いが、もしかすると此奴はと言ふ疑ひがチラツと射すやうになつて来たんだ。そのトタンに画を描くのが詰まらなくなつちやつた。……つまり俺の画の一番根本的な要素は、今言つた人生に対するいはゞ盲目的な信頼だつたんだね。美緒の事でその信頼の根本がゆるんだ、……俺の画の根本まで一緒にゆるんぢやつたんだ。……わかるかね?……いや、女房がもしかすると死ぬかもわからない、死んぢまへば画を描いたつて始まらないと言つた風の悲観論では絶対に無いんだぜ。そんな悲観論なんか俺あ持つとらん。まして、女房が生きるか死ぬかの病気なのに画でもあるまいと言つた風のヘナヘナした量見なんかぢや無いんだ。そんな事を感じてる暇なんか俺にや無い! そんな悲観論やヘナヘナ量見とは、まるつきり別物なんだよ。もつと本質的な絶望と言つたやうなものだ。その証拠に、此の春あたり、美緒が毎日喀血して殆んど息もつけないでゐる枕元で俺あ平気で画が描けたんだ。その頃は、此奴は今苦しがつてゐるが今に絶対に助かる、助けて見せると俺が確信してゐたからだよ。……いや今だつて、絶望はしてゐない。してゐないが、でもチラツとそんな気がすると、もういけない。……俺の性格の一番かんじんな所がグラグラしてしまふ。俺が生きてゐると言ふ事の中心が不確かになつて来る。一番大事なものが信用出来ないやうになつて来る。すると画を描いたつて何だと言ふ気がするんだよ。……どうにも仕方が無え。
尾崎 さうか。……でも、そいつは、君が君の芸術を唯無意識に本能的にばかり押し進めて来てゐて、シツカリと自分の芸術の立つべき地盤に就て意識的に……つまり、もつと理知的に考えてゐなかつた点に理由が有るんぢやないかな。
五郎 ……さうかも知れないな。自分ではこれまでも意識的に考へてやつて来たつもりだけど……。
尾崎 君が一頃左翼的な団体に近寄つて行つた事だつて、今から考へると、理智的に思索した結果と言ふよりも、感情的になんとなく弱い者の味方をしたいと言つた風な、言はゞまあ一種のセンチメンタリズムだつた。
五郎 うむ。センチメンタリズムも確かに有つたな。自分に果してあんな所でいつまでも戦つて行けるだけの力が有るか無いかを考へきれなかつた。又は、有ると思ひちがへてゐたからな。徹頭徹尾、自惚れだつた。身の程を知らな過ぎた。その証拠に、あの連中の言つてゐた唯物論なぞと言ふものだつてドンづまり迄突きつめて行くと、僕にや信じられなかつた。……それでまあ、直ぐにおん出てしまつたけど、……考へて見りやどつちにしても、恥さらしな話さ。……しかしね、自分だけの気持は真面目だつた。人間として下劣な動機で以て動いた結果では無かつた。
尾崎 そんな事はなんでも無いさ。具体的な問題としてだよ、現に君は熱がさめちやつたら、いつの間にかあんな団体から手を引いちまつたぢやないか。もつとも団体の方でも解散したり転向したりしちまつて形は無くなつちまつたんだから、手を引くまいと思つても引かざるを得ぬわけで、言はゞ問題は君だけの事ぢや無いんだがね。ヘツヘヘヘ、ヘヘヘ。(突然に笑ふ)
五郎 ……? (それまで自分自身の考へに没頭して、相手の表情などに気付かずに率直に話してゐたが、笑ひ声でヒヨイと尾崎を見て、眼がさめたやうになつて見詰める。――すると、商売がら色々の画家達と交際してゐる間に、いつの間にか自分まで芸術家らしい気持に伝染し、その外貌や用語などは芸術家以上に芸術家らしくなつて来てゐるが、しかし実は唯一個のデイレツタント――と言ふよりも、本質的には唯一人の商人を相手にして今迄自分はまじめに喋つてゐたのだと言ふ事を不意に知つたのである)……何を笑ふんだ!
尾崎 笑ひはしないよ。たゞ、昔、さも確信ありげにプロレタリアがどうしたとかかうしたとかと言つた連中が、自分の言つた事に責任も執らないで、いつの間にか消えて無くなつたと言ふ事を言つてゐるまでさ。
五郎 なんのために君がそんな事を言ふんだい?……今頃になつて君がその事を笑ふのかね? ぢや、君は一体何だ?
尾崎 ……僕は金貸しさ。ハハハ、それがどうしたい? 金貸しは、他人の言葉の責任に就て言つちやならんのかね? まあ、怒りたまうな、ハハ。君も知つてゐるやうに金貸しなんてものは世の中で一番怪しげな商売かもわからんさ。しかし、それでも自分がハツキリ言つた事に就ては責任を執るよ。人が自分に対してした約束も信用する。信用すればするほど、その約束の履行を期待するわけだ。つまり貸した金は必ず返して貰う。
五郎 だから俺は、返さないなんかと言つてやしないぢやないか!
尾崎 結構だ。今僕の言つてるのは、君にしても、左翼の連中にしても以前のイデオロギーで世間に約束した借金をちつとも返さないと言ふ事さ。踏み倒し過ぎるんだ。
五郎 ……一言も無い。……しかし、そんな連中は、その後、世間的には黙つてゐても、自分だけで自分の身体で以て昔の借金をなしくづしに返してゐるかも知れないよ。
尾崎 すると、さしづめ君もその一人かね?
五郎 或る意味ではさうかも知れんな。……あの時代の生活の無理がたゝつて女房は病気になつてるし、俺あ画は描けなくなるし……そんな事よりも人間が生きてゐる事自体に対してこんな風に確信がグラつきかけて来て、死ぬ苦しみをしてゐる。……見やうに依つては昔の自分……昔の自分の生活や物の考へ方から散々に復讐をされてゐる状態だとも言へるからね。……ざまを見ろと言つたテイタラクさ。しかし、そいつは、とうに自分が自分に言つてゐる事だ。君なんかから何か言はれたつてチツともこたへやあしないさ。
尾崎 しかし、そんな有様をみてゐれば、おかしくなるのは、これ、仕方が無いからね、ハツハハ。さうぢやないか? 僕に言わせりや、そんな風に、後になつて自分の事をざまあ見ろと言わなきやならん様な事を自分にさせるものは要するにセンチメンタリズムなんだ。回収の利かない金を、一時感情的にホロリと来て貸してしまふのは、よした方が、いゝと言ふ事さ。
五郎 君の言ふ事を聞いてゐると、俺に君の丁稚になれとすゝめてゐるやうに取れるな。
尾崎 さあね、さう取つて呉れてもいゝや。金貸しと言ふ商売も君が思つてゐるやうに軽蔑すべき商売でも無いよ。第一これが無いと君達が早速困るぢやないか。アツハハハ、いや、これは冗談だがね。要するに、君の才能を惜しいと思ふから、こんな事も言ふのさ。君が昔、左翼の方に近寄りはじめた頃だつて、水谷先生や毛利さんなど君の事を惜しい惜しいと言つてゐたものな。
五郎 (腹の底から怒りを辛うじて押へながら)その事を言ふのは、もう止さう。
尾崎 ……(ハツとして相手の表情を猫の様にうかゞつてゐたが)よせと言へば止すよ。……たゞ現在の君の気持だつて、やつぱり似たやうな一種のセンチメンタリズムぢや無いかしらんと言つてゐるまでだ。君から画の仕事をさつ引けば、一切が無くなるんだよ。一切だよ――。
五郎 君にや、わからん!
尾崎 だつて君……(と尚も言ひ続けようとするが相手が殆んど爆発直前の顔付きをしてゐるのに気付いて、黙つてしまつて、マヂマヂと見守つている。しかし五郎の怒りは直ぐに尾崎からもつと別のものに移つて行つたらしく、尾崎の存在など忘れてしまつて、ギラギラと光る眼で沖の方を見詰めたまゝ、黙つて考へてゐる)
(間)
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街道の方から母親と恵子が砂を踏んでブラブラ歩いて来る。
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恵子 ……ああ、こんな所に居たのね?
母親 お客が来るといつでも此処にお連れして話してゐなさるんだよ。美緒の安静をこはさないやうにね。此処が応接室だつてさ。ホツホホホ、ねえ五郎さん。
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五郎考へ込んでゐて返事をしない。
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尾崎 やあ、こりや、暫くでした。今日はお見舞ひですか。
母親 いゝごきげんですわね。こんな広々した所でお飲みになると、さぞ気持のおよろしい事でせうね。
尾崎 つい久我君がすゝめて呉れるもんですからね、ハツハハ、飲み助は意地がきたなくて。(と恵子に目礼をして、ひどく愛想が良い)えゝと、たしか、津村さんの――?
恵子 はあ。(これまでホンの一度か二度チラツと見たきりの相手があまり馴々しいので、妙な顔をしながら)……いつも義兄達が御厄介になつてゐまして。
尾崎 そ、そんな事をおつしやられると穴にでも入らなきやなりませんよ。なあに旧い友達なもんですから、まあ自分に出来るだけの事をしてゐる迄で――。(母親に)なんですかねえ、御病人がハツキリしないさうで、御心配ですねえ。
母親 はい、いゝえもう、なんですか……ホホホ。(久我が美緒の療養のために、金を借りてゐるらしい此の男にかかり合つてゐると、その借金の責任が自分にもかぶつて来さうなので、相手にしたく無いのである。)……何か御用談でせう? 恵さん、私達は少しその辺を歩いて来ようぢやないか。(歩き出す)
恵子 (描きかけのスケツチ板を変な顔をして見てゐたが)えゝ。
五郎 ……あのう、美緒は飯を食べちまつたんでせうか?
母親 もう済んだやうですよ。でも、あの小母さん、あんなに美緒を笑はしてばかり居て、病気に障りはしないんですかねえ?
五郎 いや、そりや構はないんです。機嫌が良いと食慾がつきますから。
母親 小母さんの月給はチヤンと渡して呉れてゐるんでせうね?
五郎 渡してゐます。……どうしてそんな事おつしやるんですか?
母親 いや、それならいゝんですけどね、なんだかあんまり内輪の人間みたいに、馴々しいと言ふか……。
五郎 さうでせうか? でもあれは美緒をしんから大事にして呉れてゐるんです。
母親 そりやさうの様だけど。……でも美緒も、なんであんなに近頃神経を尖らしてイライラするんですかね。あれぢやまるで話もなにも出来やしないんですものね。(五郎答へない)
恵子 五郎さん、先刻誰か来てゐたやうよ。なんか商人みたいな恐ろしく鼻のペチヤンコの中年の人だつたわ。小母さんが相手になつてチンプンカン言つてたわよ。
母親 いつか来てゐた乾物屋らしかつたぢやないか。
五郎 ぢや裏天でせう。僕が間も無く戻りますから。
母親 でも、あなたとは先刻の話をしたいから、こちらが済んだらチヨツト此処にゐてくれないと――。
五郎 さうですか……。
恵子 (沖を指して)母さん、汽船が通るわ。
母親 へえ、綺麗だねえ、まあ! (と言ひながら二人は浜伝ひに向うへ消える)
尾崎 ……妹さんは相変らず綺麗だな。……なんだい、先刻の話と言ふのは?
五郎 う? ……うん、なあに。
尾崎 めんどうな話らしいぢやないか。そんなら僕あもう帰つてもいゝよ。
五郎 さうか、済まなかつた。とにかく月末まで待つてくれ。必ずなんとかするから――。
尾崎 しかし、なんだらう、何とかすると言つても結局好文堂の仕事を余分にさせて貰ふんだらう?
五郎 うんまあ、それ以外に差当り方法は無いから――。
尾崎 まあ月末にや、とにかく当てにして来て見るにや来て見るつもりだけど、でも僕の方の事だけなら、あんまり無理をしてくれなくともいゝよ。僕の言つているのは、君が毛利さんのすゝめを無にして水谷先生の方をうつちやる事になれば、毛利さんだつてあんまり良い気持はしないだらうし、もともと毛利さんは好文堂では仲々顔が利くらしいから、君のそつちの方の仕事もまづくなるんぢやないかなあ?
五郎 ぢや、仕事をことわるとでも言ふのかい?
尾崎 さあそんな事も無いだらうが、事変以来絵が売れないで困つて内職を捜してゐる画描きがいくらでも居るからなあ。
五郎 ……まさか、あの毛利がそんな酷い事はしないよ。そんな点では彼奴は絶対に信頼の出来る男だよ。
尾崎 さうかね。……でも結局どう言ふんだね、絵本の方は描いて水谷先生一派には
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