ツクスの事を考へるのが、変な事があるもんか! 今のお前がそこまで考へられるのは大した事だよ。その調子だ! いや、行くよ行くよ、なあんだ、行くよ。(心から嬉しさうである。口笛を吹かんばかりにして、カンバスを取り上げ、障子を閉めてから湯殿の方へ行く。笑ひながら、湯殿の戸をガタピシ開ける)
小母さんの声 (裏口の辺から)ワツ! アレ、アレツ!
五郎 ……(その声でハツと何事かに気附き、カンバスを縁側に置いたまゝ庭に下りて、裏口の方へ走つて行く。……間。裏口の辺で五郎と小母さんが何かガタガタしてゐる物音。小母さんのアツ! アツ! と言う声が切れ切れに洩れて来る。……やがて五郎が汗を流しながら大型のビスケツトの空鑵を抱へ、便所の角の所に現れる)……開けて見たりするからいけないんですよ!
小母 (真青なおびえた顔でついて来て、眼を据ゑて空鑵ばかり見てゐる)……なにや知らん思うて、ヒヨツと開けたら、ホンマにわては! なんと、まあ!……そいぢや写生しいに出かけはる時に、その鑵持つて行かはるの、なんでかいなと思てゐたら……。
五郎 (空鑵のフタをグイグイとしめながらうなづく)……。
小母 ほんで、それ、どうしやはるのどす?……キビの悪い! チラツと見たばかりでわてはゾーツとして、ゾーツとして、ホンマに! それ、どうしやはる? 画に描きはるのどすか!
五郎 (美緒に聞えるから黙つてと手真似)……(低い声で、手真似をして)食ふんです。黒焼にして。
小母 (これも低い声で)へつ? あんたはんが? それを――?
五郎 ……(黙つて黙つてと手真似。それから、いや自分ではない、美緒に食べさせるんだと、病室の方を指して手真似)
小母 (声をひそめて)……そりや、わては、前からすゝめてきましたけど、五郎はん、そないな事いけん言うて反対してゐなはつたのに、急に又――?
五郎 ……(フタをねぢ込みながら、黙つて黙つてと手真似。その拍子に、もともと持ち勝手の悪い空鑵が手からすべり落ちて、構に倒れてフタが開き、その中から一匹の蛇が飛出して縁の下へサツと匐《は》ひ逃げようとする)……畜生……! (と口の中で言つて、いきなり掴みかゝつて、蛇を地面に叩きつける。あがつてゐるので、なかなかうまく行かず、一二度手元が狂つて縁側の上のカンバスの生がわきの画面に叩き附けられた蛇がピシリバタリと鈍い音を立てゝ、油絵具だらけになる。それを又引掴んで、散々骨を折つて、ねぢ込むやうにして空鑵に入れる)
小母 ……(飛び退いて、息を呑んで五郎の悪戦苦闘を見守つてゐたが、うまく鑵にとぢ込められたので稍々ホツとして、額の油汗を拭いてゐる)へえ!
五郎 ……(鑵のフタを押へ、歯を喰ひしばつて肩で息をしてゐる)
小母 ……(その五郎を見てゐる内に急に泣き出す。声が出ると病人に聞えさうなので、手で口を押へながら、慟哭)
五郎 ……(便所の手洗場の下に転がつてゐるかなり大きな石を、フタの上に載せて、鑵を縁の下に押入れる。やつとホツとし、小母さんを顧みて、しばらくボンヤリ立つてゐる。小母さんは、まだ泣いてゐる)
美緒 (病室の障子の中から、低い低い声)……どうしたの?……あなた……どうしたの?
五郎 (その声で我れに返つて)おい。……(メチヤメチヤになつたカンバスをポイと湯殿の中に投げ込んで置いて、病室の前へ歩いて行き、そこの藤棚の柱に両手のよごれをこすり附け、手の匂ひをかいだりしながら、縁にあがる。障子を開けて)……なんだ?
美緒 ……どうしたの? ……今の音?
五郎 ……なんでも無い。猫が台所に飛び込んだ。ハハ。
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短い間。
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美緒 ……。なんか……読んで……。
五郎 そうか、よし。万葉をやろう。俺の解釈を馬鹿にするときかんぞ。あれでいゝんだからな。……(奥の床の間に置いてある万葉集を持つて来て、椅子にかける)えゝと……(と言つて書物の頁を繰りながら、その手の匂ひを時々かいでゐる。なまぐさい蛇の匂ひがこびりついてゐるのである)よしか? (そんな匂ひも、それから一切の感情をも吹き飛ばす様に、開いた所をいきなり朗読し始める。自己流のブツキラ棒な節を附け、声だけは朗々と高い)隠口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の国に、さよばひに吾《あ》が来ればたな隠《ぐも》り雪は降り来ぬ、さぐもり雨は降り来ぬ、野《ぬ》つ鳥、雉《きぎす》はとよむ、家つ鳥、鶏《かひ》も鳴く。さ夜は明けこの夜は明けぬ、入りて吾《あ》が寝む、この戸|開《ひら》かせ、……いゝなあ! 入りて吾が寝むこの戸開かせと言ふんだ。……泊瀬と言ふ所に住んでゐる恋人の家へ、夜通し歩いて自分はやつて来た。……今の夜這ひと言ふのとは少し違ふだらうな。つまり恋人の所へ泊りに来る事だ。すると、やつぱり似たやうなもんか。
美緒 ……(クスクス笑つてゐる)
五郎 ところが丁度恋人の家の前までやつて来たら、雪だか雨だかパラパラ降つて来はじめた。きゞすと言うのは雉《きじ》だ。鶏《かひ》といふのはにわとり。パラパラ降つて来て、野山では雉が鳴き、家ではにはとりが鳴きだした。もうはやウツスラと夜が白んで来た。早く戸を開けてくれ、入つて寝るからと言ふんだ。女は勿論家の中にゐて、眠りもやらず待つていたんだね。……(朗読)隠口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の国に、さよばひに吾《あ》が来れば、たなぐもり雪は降り来ぬ、さぐもり雨は降り来ぬ、野《ぬ》つ鳥|雉《きぎす》はとよむ、家つ鳥|鶏《かひ》も鳴く、さ夜は明けこの夜は明けぬ、入りて吾《あ》が寝むこの戸開かせ。反歌。隠口《こもりく》の泊瀬《はつせ》小国《をぐに》に妻しあれば、石は履めども、なほぞ来にける。隠口の泊瀬小国に妻しあれば、石は履めども、なほぞ来にける。……わかるかい? ね、実に単純に歌ひ放してあるぢやないか。現世主義だ! 現実主義とか何とか理窟ばつた、ヒナヒナしたもんぢやない。俺達の祖先の単純で強い肉体と精神が自然に要求するまゝのものだ。うまく言ひ廻して美しい歌を作らうなんぞといふ量見は微塵もない。唯、此の男は女に逢ひたいんだ。夜通し歩いて歩いて、その家にやつと着いた。早く開けろといふんだ。それだけだ。それだけだから、美しいんだよ。……画で言へばルネツサンス、いやルネツサンスのデリカシーなんぞ、あんな弱いものは無い。ボチセリのヴイーナスは美しい。けど、あんなもの、しやうがあるもんか。ギリシヤだよ。ギリシヤだ。……まだ神々が肉体を持つてゐるんだ。人間が神々の単純さを持つてゐるんだ。……生きるといふ事が最高の悦びなんだ。悲しみさへも、生きる事の豊かさの中では、よろこびであつた時代だ……生きてゐる此の現在こそ唯一の貴といものだ。死んぢまえば、真暗になつて一切は無くなる。来世なんぞ有りはしない。つまらん屁理窟を言つたり神学を発明したりしてゐる暇はない。そんな物は要らん。それほど此の現在生きてゐる世界は生き甲斐のある、生きても生きても生き足りない程豊かな、もつたい無い程のすばらしい所だ。そうぢやないか! どうだ、すげえぢや無いか。こんな連中の血が俺達の身体の中にも流れてゐるんだよ。いゝかい? 俺達はこんな奴等の子孫だよ。チツと考へろ。……美緒、お前はいつか、神様は有るかなんて言つてゐたな? フン! そんなもの有るもんかい! 慾張るな。人間死んぢまへば、それつきりだ。それでいゝんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛さうと思つても、そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。たゞ一面に霊魂……かな? とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめてゐるだけで、そん中から誰か好きな人間を捜さうと思つても見付かりやしないよ。入りて吾が寝む、此の戸開かせなんて事は無くなる。人間、死んだらおしまひだ。生きてゐる事が一切だ。生きてゐる事を大事にしなきやいかん。生きてゐる事がアルフアでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 神様なんてものはな、生きてゐる此の世を粗末にした人間の考へる事だ。この現世を無駄に半チクに生きてもいゝ口実にしようと思つて誰かが考へ出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない。第一、神様なんて居やしないよ。その証拠には……その証拠には、神様が居て、そいで神様が人間を創つたもんなら、そんなら、その人間を倒す結核菌は誰が創つたんだ? 結核菌の方には結核菌だけの神様が居るわけか? 馬鹿にするな! (はじめはそれ程でも無かつたが、喋つてゐる中に本気になつて手をブルブル顫はせてゐる)
美緒 ……そんな……私に……怒つたつて……。
五郎 (我れに返つて)……要するにな、俺の言ひたいのは、万葉人達の生活がこんなにすばらしかつたのは、生きる事を積極的に直接的に愛してゐたからだよ。自分の肉体が、うれしくつてうれしくつて仕方が無かつたのだ。逆に言ふと、来世だとか死んだ後の神様だとか、そんなものを信じてゐなかつたからこそ、奴さん達は今現に生きてゐる此の世を大事に大事に、それこそ自分達に与へられた唯一無二の絶対なものとして生き抜いた。死んだらそれつきりだと思ふからこそ此の世は楽しく、悲しく、せつない位のもつたい無い場所なんだよ。死ねば又来世が有つたり、変てこな顔をした神様がゐてくれたりすると思つたら、此の世はなんの事あ無い手習い草紙みたいなもんだ。いゝくら加減に書きつぶして置けばいゝと言ふ気にもなるんだ。神だとか来世だとかを考へ出したのは、小さく弱くなつた近代の人間の謂はゞ病気だよ。そんな事を考へて置かないと此の世に生きる事の強烈さに耐え切れなくなつちやつたんだ。病気だ。俺達はみんな病気になつてゐる。誰も彼もみんな病人だ。…わかるかい? ……そして、この病気を治してくれるのは、昔の、俺達の先祖が生きてゐた通りに生きて見る以外に無いよ。自分の肉体でもつて動物のやうに生きる以外に無い。動物と言つて悪けりや、一人々々が神になるんだ。……今、戦争に行つてゐる兵隊達が、それだよ。動物でもあれば神々でもある。日本の神々が戦つてゐるんだ。戦争をすると言ふ事は、最も強烈に生きるといふ事だよ。さうぢやないか。理窟もヘチマも、宗教もイデオロギーも、すべてを絶した所で、火の様になつて生きてゐる! それが戦争だ。いゝか? ……俺達は万葉人達の子孫だ。入りて吾が寝む此の戸開かせだ。早く開けろ。それでいゝんだ。お前が、赤井と伊佐子さんを一緒に寝させたがつた。それでいゝんだ。それでイライラして熱を出した。それもいゝ。俺あうれしいよ、その調子なんだ。……俺達あ、美しい、楽しい、かけがへのない肉体を持つてゐるんだ。ゆづるな、石にかじり付いても、赤つ耻を掻いても、どんなに苦しくつても、かまふ事あ無い。真暗な、なんにも無い世界に自分の身体をゆづつてたまるか。[#「たまるか。」は底本では「たまるか?」]
美緒 読んで……また……
五郎 よしよし、……どうも講義の方が長くなつちまはあ。ハハ。疲れはしないか? ……ぢや読むよ(と書物をめくつて)チエツ、まだ臭い……(と指の蛇の匂ひをかいでゐる)
美緒 ……どうしたの?
五郎 なんでも無い。(朗読)大伴旅人。あな醜《みに》く、さかしらをすと酒のまぬ、人をよく見ば猿にかも似む。……これは前にも一度読んだね。あゝ見苦しい事ぢや、悧巧ぶつた事をする人と酒を飲まない人を、よくよく見たら猿にでも似てるらしい。猿にかも似む。全くだ、猿め! (朗読)同じく。妹《いも》と来《こ》し敏馬《みぬめ》の崎をかへるさに、ひとりし見れば涙ぐましも。妻と一緒に来た事のある敏馬の崎を帰り途に一人で通つて見ると、涙ぐましい……(朗読)同じく。この世にし、楽しくあらば、来ん生《よ》には、虫にも、鳥にも吾《あ》れはなりなむ。そら、これだこれだ! 此の世さへ楽しかつたら来世には、たとへどんな動物になつたつてそんな事あ構はん。これだよ! この世にし楽しくあらば来ん生には、虫にも鳥にも吾れはなりなむ!
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そこへ小母さんが台所の方から出て来る。
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