拝みなはれ、あんな良いお婿はんは三千世界捜しても居やはらへん!
美緒 いえ、あのね……(とまだ何か言はうとするが、数語を言つたためにガツクリしたのと、自分の声ではどんなに小母さんの耳の傍で言つても、到底きこえさうにないために、話すのをよしてしまひ、涙ぐんで、うなづいて見せる)……(しかし又、フト思い附いて、小母さんの片手を取つて、その手の平に指で仮名を書きはじめる)……。
小母 (掌を見ながら)わ……た……し。わたしどすか?……わ……し……や……わ……せ……よ。わしやわせよ、とはなんどす?……あゝ、わたしは、しやわせよ、どすかいな? さうどすとも! さうどす!
美緒 ……だから、もう……いつ死んでも……いゝの。……だけど、その後……五郎は……どうなるの。
小母 (やつぱり通じない)さうどす! さうどす! 奥さんは仕合せや! 又、奥さんみたいなお嫁さん持つて五郎はんも仕合せや! しやあからな、しやあから、早う病気良うならはつて、今にピンシヤンして、今に、わての事、たつた一度でいゝさけ、東京歌舞伎のえゝとこ、見せに連れて行つてくなはれや! な!
美緒 ……(ガツカリして、微笑して小母さんを見守つてゐるだけ)
小母 なあに、いんまに、もう間も無く、秋になりまつせ。そしたら涼しうなつて、奥さん、直ぐに良くならはります。直ぐにもう秋どす!
美緒 ……(何か言ふのはもう諦らめて、片手を出して小母さんの頭を撫でゝやる)……。
小母 (自分も美緒の左手を撫でさすりながら)……そしたら、ムクムク太らはる! うまい物、五郎はんにタント買つて貰はつて、うーんと食べて、キレーにならはつて、な!
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間。…………
 五郎が下手から庭を廻つて戻つて来る。相変らず憔悴し切つた姿だが、顔の表情には、今までとは更に違つた思ひ決した様な所がある。看病の隙に僅かな時間を割いて、近くに絵を描きに行つたと見え、左手にスケツチ箱とイーゼルを下げ、右手に七分通り描き上つてゐる三十号のカンバスを下げてゐる。ひどく疲れてゐるらしい。スケツチ箱とイーゼルを湯殿の前の廊下に置いてから、美緒に自分の疲れてゐる様子を見せまい為であらう、暫らくそこに立つたまゝ片手で両眼を蔽うてゐる。
 音を聞きつけて、病室の美緒が眼をそちらへ向ける。
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小母 (美緒の視線を追つて)……あゝ、五郎はん、戻らはつた! そらそら奥さん……(立つて五郎の方へ行く)お帰りやす。
五郎 ……(黙つて小母さんを見て手真似で、美緒は変りないかと訊ねる)
小母 ……(これも手真似で変り無いと答へてから)……まあま、今日はえらう描けはつた。絵具がコテコテや!
五郎 (小母さんの耳元へ)小母さん、少しやすんで下さい。いつとき僕が見ますから……。(カンバスだけを下げて病室の方へ)
小母 へいへい。それぢや、チーツと洗濯物を済ませてから、やすまして貰ひま。(廊下から庭へ下りて、裏口の方へ消える)
五郎 (カンバスを裏返しに柱にたてかけてから)……どうだい?……(美緒の額に掌を当てゝ見る)うむ。……又、小母さんと喋つてゐたんぢや無いだらうな?
美緒 ……(かぶりを振る。それからカンバスを指す)
五郎 まだ描き上つとらん。
美緒 ……見せて……。
五郎 今日又、スツカリ塗り直しちやつたよ。メチエが弱い。……もう油絵具なんかをどんなに盛上げて見ても俺達の描きたいものにピタツとしないや。美し過ぎる。弱いんだ。コンクリートの粉を塗つたり、牛の生皮を叩きつけたりしたくなるんだ。絵具は弱い。
美緒 ……見たいの……。
五郎 ……(美緒をさぐる様にジツと見守つてゐたが、やがてカンバスを表に向けて襖に立てかける)……ぢや見ろ。
美緒 ……(その画の方へ首をグツと上げるやうにする)
五郎 そんな事しちやいかん。……(美緒の首の所に片手を当てがつて支へてやる)
美緒 ……(荒い調子で描かれた風景にピタリと眼を吸ひ附けられ黙つて見詰める)
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間。……五郎も自分の画を見てゐる。
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美緒 ……あゝ、綺麗だ。(自分を忘れたやうな声を出す)
五郎 ……もういゝだらう。疲れる。
美緒 ……いや、もつと。……あゝ! (まだ見詰めてゐる)
五郎 もういゝよ。疲れるから。(美緒の頭をそつと枕の上に置いてやつて)……なんだ、泣くやつがあるか。
美緒 ……久し振りよ。……あんたの画を見るの……。
五郎 ハハ、そらそら――(と涙を拭いてやりながら)……なんでもいゝから、もう口を利くのは、よしなよ。
美緒 ……ありがたう……。
五郎 よせと言つたらよせ。……(吸入器の口を直してやる)これから、いくらでも描いてやる。……薬は飲んだのか? (美緒うなづく)……少し顔が赤いね?……気分は悪く無いのか?……さうか。比企さんの処方はやつぱり一番効くやうだな。……比企さんと言へば、いや、どうも、俺あ醜態を演じちやつて……。頭を悪くしてるよ。……とうとう怒らしちやつた。あの立派な人に喰つてかゝるといふ法はないんだ。醜態だ。……いや、直ぐに詑《あやま》り状は出しといたがね。怒つちやゐないから、今後ももし必要があつたら、いくらでもさう言つてよこしてくれと言つて来た。……俺あ、耻かしくつてなあ。……まあいゝさ。俺と言ふ男は、何処へ行つても結局赤つ耻を掻くやうに出来てゐるんだなあ。……どうも仕方がないよ。ハハハ、……まだチツトも人間が出来てゐない。よくよく駄目だ。……三十面をさげて青過ぎらあ。……(美緒が頭を横に振つて、そんな事は無いと言ふ。と言ふよりも、そんな風に自分を否定してはいけないと言ふ意味を籠めて)なんだつて? いや、さうなんだ。こんな事ぢや、赤井にだつて済まねえ。……第一、こんな事で赤井の留守を、伊佐子さんや生れて来る赤んぼなんぞの事をチヤンと守つてやつて行けるもんか。久我五郎はオツチヨコチヨイの青二才だよ。……一言に言ふと、やつぱり安価なるセンチメンタリストなんだな。尾崎の奴あ、さすがに人を見る眼が肥えてゐやがる。ハハハ(言ひ方はわざと滑稽化してゐるが、自分では本当に自分をその様に反省してゐるのである)……どうだ、少し又、万葉を読んでやらうか? いらんか? あとで? さうか。ハハハハ。俺の万葉の講義は、まるつきり自己流だからな。ハハ、でもあれでいゝんだよ。馬鹿にしちやいかん! 自己流でもなんでも、万葉集は俺みたいにして読むのが一番本当なんだよ。……日本人でさへあれば、どんな無学な者が、どんな読み方をしても結局わかる。……ホントの古典といふものは、みんなさうだよ。
美緒 ……あなた……怒らない?
五郎 なんだい? 怒る? なにを?
美緒 ……怒らないと……約束して。
五郎 なんの事だか、わかりやしないぢやないか。……よし、ぢや約束する。怒りやしない。なんだよ?
美緒 ……(枕の下から一通の手紙を出して渡す。封が切つてある)
五郎 なんだ?……毛利から来た手紙ぢやないか。お前読んぢまつたな?……さうか。いや怒りやしないよ。……(手紙の内容を出して、黙読。読んで行く内に、顔が変に歪んで来る。悪い手紙らしい。読み終つて黙つてゐるが、腹の底からこみ上げて来るものを自ら押へてゐる)……ふん……さうか。……それでいゝぢやないか。(美緒の眼を見て)それが、どうしたい?
美緒 ……毛利さんも……あんまり……ひどいわ。
五郎 俺、怒つちや、ゐないだろ? いゝよ、それもよしと。如何にも毛利らしい書き方ぢやないか。まはりくどい。……結局、簡単に言へば、こちらの好意を無にするやうなら、好文堂の仕事もことわるからと言ふんぢやないか。……こないだの尾崎がやつて来てすゝめた事をことわつたんで、そんな事ならと言ふ訳だらう、いゝさ。仕事は、又他で捜すよ。……妙な顔をするのはよせ。
美緒 ……ひどいわ、毛利さん。……だつて……あの人、やつと……画らしい物が……描けるやうに……なつたの……あなたの……おかげよ。……どれだけ……あなたには……世話になつて……。
五郎 いゝよ、いゝよ。毛利が画が描けるやうになれば、結構ぢやないか。それがどうしたい?……これが世間なんだ。表裏反覆、いづくんぞ常あらんやだ。……面白いと思つて見てゐりやいゝ。なあに、子供の絵本はほかにもあるし、それも駄目なら似顔画描きにでも、紙芝居にでも、豆腐屋にでもなんにでもなる。……クヨクヨするな。初めつから世間の前で赤つ耻を掻く気でゐりや、なんでもやれらあ。どうせ、出来そくないの人間だ。恥も外聞も構はず、どうぞなんかやらして下さいと土下座して頼めば、なんか有るよ。……ハハ、お前知つてるか? 南北と言ふ人の「累《かさね》」と言ふ芝居の中にね、伊右衛門と言ふ悪党が出て来るんだよ。いゝかい? そいつがなあ、かう言ふんだ。「首が飛んでも死ぬものか!」
美緒 ……いえ、好文堂の事は……仕方が無いとしても……そんな事で……毛利さん達と……仲が悪くなつてゐては……あなたが……今後……画の仕事の上で……途がふさがる。……それが……私……心配……。
五郎 ハツハハハ、何を言ふか! 俺あ画を描いてゐるんだぜ。カンバスでタイコを叩いてゐるんぢや無えんだ。糞でも喰へ。……な、これが俺の画だ。これは、画だらう? さうだらう?……なら、それでいゝんだ。
美緒 ……でも。
五郎 もう言ふな。お前もその気になりやいゝんだよ。……(わざと芝居のセリフじみて言ふが毒々しい位の真実をこめて)首が飛んでも、死ぬものけえ!……ハハ。第一、俺の友達にや、赤井だとか須崎だとか藤戸などと言ふ素晴らしい奴等がチヤンと居てくれるよ。大したもんよ。……(と努めて美緒の考へを他へ転じやうとして)ところで赤井は、もう行つたかな?……さうだ、こないだ赤井が来た日の夜からお前熱を出したな?……あれ、どう言ふんだい? 病気はチツトも変つて来ないのに、なんで、あんな出しぬけに熱を出す? え?……第一、なんであんなにイライラしたの? あれで熱が出たんだよ。どうして、あんなにイライラしたい?
美緒 ……だつて……散歩に行けと言ふのに……あなた……行かないから……。
五郎 だつてお前、それだけの為に、あんなにジレる事あ無いぢやないか。そりや、伊佐子さんと赤井が二人きりでユツクリ出来るのは、あれが最後だつたかもわからないけど、俺だつて赤井と話すのは最後かも知れない。一分間でも一緒に居たいやね。それをお前は無理に追ひ出さうとするんだ。
美緒 ……だつて、……夫婦よ。……それで……。
五郎 そりや解つてるよ。だからさ――。
美緒 あなたには……わからない……私は……赤井さん達……ホントの二人つきりにして……ゆつくり……させたかつた……のよ。
五郎 だからさ、だから俺あ――(と言ひながら美緒の顔を見詰めてゐたが、急に何かを悟つてポカンと口を開ける)……。すると……すると、なにか? お前は――?
美緒 ……(パツと赤くなつて、両掌で顔を蔽ふ)
五郎 ……ふむ。……さうか、そんな事をお前……さうか。(美緒の言つてゐるのがセキ[#「セキ」に「ママ」の注記]ヂユアルな事であつた事を理解するや、急に、はじめドギマギするが、次第に、赤井達のためにそこ迄考へてゐた此の病人が可哀さうな様な、いぢらしい様な、不思議な様な気がして来、いつまでもいつまでも見守つてゐる)……さうか。
美緒 ……はづかしい……わ。(まだ顔を蔽うてゐる)
五郎 ……いや、いゝんだ。はづかしい事なんか無いよ。その調子だよ、その調子だ。それでいゝんだ。な! (美緒の頭を静かに抱いて、その顔を蔽うてゐる掌の甲の上から接吻する)……な! 美緒、お前は良い女だ。……なるほど、赤井達は、あれつきりで、会へないかもわからんのだ。……美緒、お前は本当に良い女だ。
美緒 ……いや……だわ。……あつちい……行つて。
五郎 アツハハハ、ハハハ、はづかしがらなくつていゝよ。ハハ、そいで、赤井達はお前がそんな事まで考へてゐたと言ふ事は未だに気が附かずにゐるだらう。すばらしいぢやないか。いゝんだよ。セ
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